御書本文
偈の余残なり、涅槃経四十巻の中に集りて候いし五十二類にも自我偈の功徳をこそ仏は重ねて説かせ給いしか、されば初め寂滅道場に十方世界微塵数の大菩薩・天人等・雲の如くに集りて候いし大集・大品の諸聖も大日経・金剛頂経等の千二百余尊も過去に法華経の自我偈を聴聞してありし人人、信力よはくして三五の塵点を経しかども今度・釈迦仏に値い奉りて法華経の功徳すすむ故に霊山をまたずして爾前の経経を縁として得道なると見えたり。
されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う世界の人の父母の如し、今法華経・寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり、我が得道なりし経を持つ人を捨て給う仏あるべしや、若し此れを捨て給はば仏還つて我が身を捨て給うなるべし、これを以て思うに田村利仁なんどの様なる兵を三千人生みたらん女人あるべし、此の女人を敵とせん人は此の三千人の将軍をかたきに・うくるにあらずや、法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは三世の諸仏を敵とするになるべし、今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり、たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見・菩薩は種種の色と見・仏種・純熟せる人は仏と見奉る、されば経文に云く「若し能く持つこと有るは・即ち仏身を持つなり」等云云、天台の云く「稽首妙法蓮華経一帙・八軸・四七品・六万九千三八四・一一文文・是真仏・真仏説法利衆生」等と書かれて候。
之を以て之を案ずるに法蓮法師は毎朝口より金色の文字を出現す此の文字の数は五百十字なり、一一の文字変じて日輪となり日輪変じて釈迦如来となり大光明を放つて大地をつきとをし三悪道・無間大城を照し乃至東西南北・上方に向つては非想・非非想へものぼりいかなる処にも過去聖霊のおはすらん処まで尋ね行き給いて彼の聖霊に語り給うらん、我をば誰とか思食す我は是れ汝が子息・法蓮が毎朝誦する所の法華経の自我偈の文字なり、此の文字は汝が眼とならん耳とならん足とならん手とならんとこそ・ねんごろに語らせ給うらめ、其の時・過去聖
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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法蓮抄 | 54 | 曾谷法蓮日礼 | 身延 |
日蓮大聖人御書
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法蓮抄 1,050ページ
偈の余残なり、涅槃経四十巻の中に集りて候いし五十二類にも自我偈の功徳をこそ仏は重ねて説かせ給いしか、されば初め寂滅道場に十方世界微塵数の大菩薩・天人等・雲の如くに集りて候いし大集・大品の諸聖も大日経・金剛頂経等の千二百余尊も過去に法華経の自我偈を聴聞してありし人人、信力よはくして三五の塵点を経しかども今度・釈迦仏に値い奉りて法華経の功徳すすむ故に霊山をまたずして爾前の経経を縁として得道なると見えたり。
されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う世界の人の父母の如し、今法華経・寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり、我が得道なりし経を持つ人を捨て給う仏あるべしや、若し此れを捨て給はば仏還つて我が身を捨て給うなるべし、これを以て思うに田村利仁なんどの様なる兵を三千人生みたらん女人あるべし、此の女人を敵とせん人は此の三千人の将軍をかたきに・うくるにあらずや、法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは三世の諸仏を敵とするになるべし、今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり、たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見・菩薩は種種の色と見・仏種・純熟せる人は仏と見奉る、されば経文に云く「若し能く持つこと有るは・即ち仏身を持つなり」等云云、天台の云く「稽首妙法蓮華経一帙・八軸・四七品・六万九千三八四・一一文文・是真仏・真仏説法利衆生」等と書かれて候。
之を以て之を案ずるに法蓮法師は毎朝口より金色の文字を出現す此の文字の数は五百十字なり、一一の文字変じて日輪となり日輪変じて釈迦如来となり大光明を放つて大地をつきとをし三悪道・無間大城を照し乃至東西南北・上方に向つては非想・非非想へものぼりいかなる処にも過去聖霊のおはすらん処まで尋ね行き給いて彼の聖霊に語り給うらん、我をば誰とか思食す我は是れ汝が子息・法蓮が毎朝誦する所の法華経の自我偈の文字なり、此の文字は汝が眼とならん耳とならん足とならん手とならんとこそ・ねんごろに語らせ給うらめ、其の時・過去聖
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