御書本文
して居たりしかども、人もみへず食もあたへずして四箇年なり、彼の蘇武が胡国に・とめられて十九年が間・蓑をき雪を食としてありしが如し。
今又此山に五箇年あり、北は身延山と申して天にはしだて・南は・たかとりと申して鶏足山の如し、西はなないたがれと申して鉄門に似たり・東は天子がたけと申して富士の御山にたいしたり、四の山は屛風の如し、北に大河あり早河と名づく早き事・箭をいるが如し、南に河あり波木井河と名づく大石を木の葉の如く流す、東には富士河北より南へ流れたりせんのほこをつくが如し内に滝あり身延の滝と申す白布を天より引くが如し此の内に狭小の地あり日蓮が庵室なり深山なれば昼も日を見奉らず夜も月を詠むる事なし峯にははかうの猨かまびすしく谷には波の下る音鼓を打つがごとし地にはしかざれども大石多く山には瓦礫より外には物もなし国主はにくみ給ふ万民はとぶらはず冬は雪道を塞ぎ夏は草をひしげり鹿の遠音うらめしく蟬の鳴く声かまびすし訪う人なければ命もつぎがたしはだへをかくす衣も候はざりつるにかかる衣ををくらせ給えるこそいかにとも申すばかりなく候へ。
見し人聞きし人だにも・あはれとも申さず、年比なれし弟子・つかへし下人だにも皆にげ失とぶらはざるに聞きもせず見もせぬ人の御志哀なり、偏に是れ別れし我が父母の生れかはらせ給いけるか、十羅刹の人の身に入りかはりて思いよらせ給うか、唐の代宗皇帝の代に蓬子将軍と申せし人の御子・李如暹将軍と申せし人勅定を蒙りて北の胡地を責めし程に、我が勢数十万騎は打ち取られ胡国に生け取られて四十年漸くへし程に、妻をかたらひ子をまうけたり、胡地の習い生取をば皮の衣を服せ毛帯をかけさせて候が、只正月一日計り唐の衣冠をゆるす、一年ごとに漢土を恋いて肝をきり涙をながす、而る程に唐の軍おこりて唐の兵・胡地をせめし時・ひまをえて胡地の妻子をふりすてて・にげしかば、唐の兵は胡地の・えびすとて捕へて頸をきらんとせし程に、とかうして徳宗皇帝
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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妙法比丘尼御返事 | 57 | 身延 |
日蓮大聖人御書
検索結果詳細 御書本文
妙法比丘尼御返事 1,414ページ
して居たりしかども、人もみへず食もあたへずして四箇年なり、彼の蘇武が胡国に・とめられて十九年が間・蓑をき雪を食としてありしが如し。
今又此山に五箇年あり、北は身延山と申して天にはしだて・南は・たかとりと申して鶏足山の如し、西はなないたがれと申して鉄門に似たり・東は天子がたけと申して富士の御山にたいしたり、四の山は屛風の如し、北に大河あり早河と名づく早き事・箭をいるが如し、南に河あり波木井河と名づく大石を木の葉の如く流す、東には富士河北より南へ流れたりせんのほこをつくが如し内に滝あり身延の滝と申す白布を天より引くが如し此の内に狭小の地あり日蓮が庵室なり深山なれば昼も日を見奉らず夜も月を詠むる事なし峯にははかうの猨かまびすしく谷には波の下る音鼓を打つがごとし地にはしかざれども大石多く山には瓦礫より外には物もなし国主はにくみ給ふ万民はとぶらはず冬は雪道を塞ぎ夏は草をひしげり鹿の遠音うらめしく蟬の鳴く声かまびすし訪う人なければ命もつぎがたしはだへをかくす衣も候はざりつるにかかる衣ををくらせ給えるこそいかにとも申すばかりなく候へ。
見し人聞きし人だにも・あはれとも申さず、年比なれし弟子・つかへし下人だにも皆にげ失とぶらはざるに聞きもせず見もせぬ人の御志哀なり、偏に是れ別れし我が父母の生れかはらせ給いけるか、十羅刹の人の身に入りかはりて思いよらせ給うか、唐の代宗皇帝の代に蓬子将軍と申せし人の御子・李如暹将軍と申せし人勅定を蒙りて北の胡地を責めし程に、我が勢数十万騎は打ち取られ胡国に生け取られて四十年漸くへし程に、妻をかたらひ子をまうけたり、胡地の習い生取をば皮の衣を服せ毛帯をかけさせて候が、只正月一日計り唐の衣冠をゆるす、一年ごとに漢土を恋いて肝をきり涙をながす、而る程に唐の軍おこりて唐の兵・胡地をせめし時・ひまをえて胡地の妻子をふりすてて・にげしかば、唐の兵は胡地の・えびすとて捕へて頸をきらんとせし程に、とかうして徳宗皇帝
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