御書本文
はじ、いたきとかゆきとの如くあてがわせ給はんと・をもひ候いしについに病悩なをり・海中いろくづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる事・此れ病悩のゆへなり、さだめて十羅刹女のせめなり、此の功徳も夫婦二人の功徳となるべし、我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが・法華経の行者となりて無始色心・本是理性・妙境妙智・金剛不滅の仏身とならん事あにかの仏にかわるべきや、過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、法華経の一念三千の法門・常住此説法のふるまいなり、かかるたうとき法華経と釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし。
寿量品に云く「顚倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」とはこれなり、迷悟の不同は沙羅の四見の如し、一念三千の仏と申すは法界の成仏と云う事にて候ぞ。
雪山童子のまへにきたりし鬼神は帝釈の変作なり、尸毘王の所へにげ入りし鳩は毘首羯摩天ぞかし、班足王の城へ入りし普明王は教主釈尊にてまします、肉眼はしらず仏眼は此れをみる、虚空と大海とには魚鳥の飛行するあとあり此等は経文にみえたり、木像即金色なり金色即木像なり、あぬるだが金はうさぎとなり死人となる、釈摩男がたなごころにはいさごも金となる、此等は思議すべからず、凡夫即仏なり・仏即凡夫なり・一念三千我実成仏これなり。
しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか、伊東とかわなのみちのほどはちかく候へども心はとをし・後のためにふみをまいらせ候ぞ、人にかたらずして心得させ給へ・すこしも人しるならば御ためあしかりぬべし、むねのうちにをきてかたり給う事なかれ・あなかしこ・あなかしこ、南無妙法蓮華経。
弘長元年六月二十七日 日 蓮 花押
船守弥三郎殿許へ之を遣わす
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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船守弥三郎許御書 | 40 | 伊東 |
日蓮大聖人御書
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船守弥三郎許御書 1,446ページ
はじ、いたきとかゆきとの如くあてがわせ給はんと・をもひ候いしについに病悩なをり・海中いろくづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる事・此れ病悩のゆへなり、さだめて十羅刹女のせめなり、此の功徳も夫婦二人の功徳となるべし、我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが・法華経の行者となりて無始色心・本是理性・妙境妙智・金剛不滅の仏身とならん事あにかの仏にかわるべきや、過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、法華経の一念三千の法門・常住此説法のふるまいなり、かかるたうとき法華経と釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし。
寿量品に云く「顚倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」とはこれなり、迷悟の不同は沙羅の四見の如し、一念三千の仏と申すは法界の成仏と云う事にて候ぞ。
雪山童子のまへにきたりし鬼神は帝釈の変作なり、尸毘王の所へにげ入りし鳩は毘首羯摩天ぞかし、班足王の城へ入りし普明王は教主釈尊にてまします、肉眼はしらず仏眼は此れをみる、虚空と大海とには魚鳥の飛行するあとあり此等は経文にみえたり、木像即金色なり金色即木像なり、あぬるだが金はうさぎとなり死人となる、釈摩男がたなごころにはいさごも金となる、此等は思議すべからず、凡夫即仏なり・仏即凡夫なり・一念三千我実成仏これなり。
しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか、伊東とかわなのみちのほどはちかく候へども心はとをし・後のためにふみをまいらせ候ぞ、人にかたらずして心得させ給へ・すこしも人しるならば御ためあしかりぬべし、むねのうちにをきてかたり給う事なかれ・あなかしこ・あなかしこ、南無妙法蓮華経。
弘長元年六月二十七日 日 蓮 花押
船守弥三郎殿許へ之を遣わす
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