御書本文

撰時抄
278ページ

り、死して已後にわたれる経をばいかでか破り給うべきとせめさせ給いて候いしかば得一はつまるのみならず舌八にさけて死し候いぬ、これは彼にはにるべくもなき悪口なり、華厳の法蔵・三論の嘉祥・法相の玄奘・天台等・乃至南北の諸師・後漢より已下の三蔵人師を皆をさえて盗人とかかれて候なり、其の上・又法華経を醍醐と称することは天台等の私の言にはあらず、仏・涅槃経に法華経を醍醐ととかせ給い天親菩薩は法華経・涅槃経を醍醐とかかれて候、竜樹菩薩は法華経を妙薬となづけさせ給う、されば法華経等を醍醐と申す人・盗人ならば釈迦・多宝・十方の諸仏・竜樹・天親等は盗人にてをはすべきか、弘法の門人等・乃至日本の東寺の真言師・如何に自眼の黒白はつたなくして弁へずとも他の鏡をもつて自禍をしれ、此の外法華経を戯論の法とかかるること大日経・金剛頂経等にたしかなる経文をいだされよ、設い彼彼の経経に法華経を戯論ととかれたりとも訳者の悞る事もあるぞかしよくよく思慮のあるべかりけるか、孔子は九思一言・周公旦は沐には三にぎり食には三はかれけり外書のはかなき世間の浅き事を習う人すら智人はかう候ぞかし、いかにかかるあさましき事はありけるやらん、かかる僻見の末へなれば彼の伝法院の本願とがうする聖覚房が舎利講の式に云く「尊高なる者は不二摩訶衍の仏なり驢牛の三身は車を扶くること能はず秘奥なる者は両部・漫陀羅の教なり顕乗の四法は履を採るに堪へず」と云云、顕乗の四法と申すは法相・三論・華厳・法華の四人、驢牛の三身と申すは法華・華厳・般若・深密経の教主の四仏、此等の仏僧は真言師に対すれば聖覚・弘法の牛飼・履物取者にもたらぬ程の事なりとかいて候、彼の月氏の大慢婆羅門は生知の博学・顕密二道胸にうかべ内外の典籍・掌ににぎる、されば王臣頭をかたぶけ万人師範と仰ぐ。あまりの慢心に世間に尊崇する者は大自在天・婆籔天・那羅延天・大覚世尊・此の四聖なり我が座の四足にせんと座の足につくりて坐して法門を申しけり、当時の真言師が釈迦仏等の一切の仏をかきあつめて灌頂する時敷まんだらとするがごとし、禅宗の法師等が云く此の宗は仏の頂をふむ大法なりというがごとし、而るを賢愛論師と申せし小

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
撰時抄 54   身延

日蓮大聖人御書

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撰時抄 278ページ

り、死して已後にわたれる経をばいかでか破り給うべきとせめさせ給いて候いしかば得一はつまるのみならず舌八にさけて死し候いぬ、これは彼にはにるべくもなき悪口なり、華厳の法蔵・三論の嘉祥・法相の玄奘・天台等・乃至南北の諸師・後漢より已下の三蔵人師を皆をさえて盗人とかかれて候なり、其の上・又法華経を醍醐と称することは天台等の私の言にはあらず、仏・涅槃経に法華経を醍醐ととかせ給い天親菩薩は法華経・涅槃経を醍醐とかかれて候、竜樹菩薩は法華経を妙薬となづけさせ給う、されば法華経等を醍醐と申す人・盗人ならば釈迦・多宝・十方の諸仏・竜樹・天親等は盗人にてをはすべきか、弘法の門人等・乃至日本の東寺の真言師・如何に自眼の黒白はつたなくして弁へずとも他の鏡をもつて自禍をしれ、此の外法華経を戯論の法とかかるること大日経・金剛頂経等にたしかなる経文をいだされよ、設い彼彼の経経に法華経を戯論ととかれたりとも訳者の悞る事もあるぞかしよくよく思慮のあるべかりけるか、孔子は九思一言・周公旦は沐には三にぎり食には三はかれけり外書のはかなき世間の浅き事を習う人すら智人はかう候ぞかし、いかにかかるあさましき事はありけるやらん、かかる僻見の末へなれば彼の伝法院の本願とがうする聖覚房が舎利講の式に云く「尊高なる者は不二摩訶衍の仏なり驢牛の三身は車を扶くること能はず秘奥なる者は両部・漫陀羅の教なり顕乗の四法は履を採るに堪へず」と云云、顕乗の四法と申すは法相・三論・華厳・法華の四人、驢牛の三身と申すは法華・華厳・般若・深密経の教主の四仏、此等の仏僧は真言師に対すれば聖覚・弘法の牛飼・履物取者にもたらぬ程の事なりとかいて候、彼の月氏の大慢婆羅門は生知の博学・顕密二道胸にうかべ内外の典籍・掌ににぎる、されば王臣頭をかたぶけ万人師範と仰ぐ。あまりの慢心に世間に尊崇する者は大自在天・婆籔天・那羅延天・大覚世尊・此の四聖なり我が座の四足にせんと座の足につくりて坐して法門を申しけり、当時の真言師が釈迦仏等の一切の仏をかきあつめて灌頂する時敷まんだらとするがごとし、禅宗の法師等が云く此の宗は仏の頂をふむ大法なりというがごとし、而るを賢愛論師と申せし小


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