御書本文
さにてあるやらん去ぬる文永十一年四月十二日の大風は阿弥陀堂の加賀法印・東寺第一の智者の雨のいのりに吹きたりし逆風なり、善無畏・金剛智・不空の悪法をすこしもたがへず伝えたりけるか心にくし心にくし。
弘法大師は去ぬる天長元年の二月大旱魃のありしに先には守敏・祈雨して七日が内に雨を下す但京中にふりて田舎にそそがず、次に弘法承取て一七日に雨気なし二七日に雲なし三七日と申せしに天子より和気の真綱を使者として御幣を神泉苑にまいらせたりしかば天雨下事三日、此れをば弘法大師並に弟子等此の雨をうばひとり我が雨として今に四百余年・弘法の雨という、慈覚大師の夢に日輪をいしと弘法大師の大妄語に云く弘仁九年の春・大疫をいのりしかば夜中に大日輪出現せりと云云、成劫より已来・住劫の第九の減・已上二十九劫が間に日輪夜中に出でしという事なし、慈覚大師は夢に日輪をいるという内典五千七千・外典三千余巻に日輪をいると・ゆめにみるは吉夢という事有りやいなや、修羅は帝釈をあだみて日天を・いたてまつる其の矢かへりて我が眼にたつ、殷の紂王は日天を的にいて身を亡す、日本の神武天皇の御時度美長と五瀬命と合戦ありしに命の手に矢たつ、命の云く我はこれ日天の子孫なり日に向い奉りて弓をひくゆへに日天のせめを・かをほれりと云云、阿闍世王は邪見をひるがえして仏に帰しまいらせて内裏に返りて・ぎよしんなりしが、おどろいて諸臣に向て云く日輪・天より地に落つと・ゆめにみる諸臣の云く仏の御入滅か云云、須跋陀羅がゆめ又かくのごとし、我国は殊にいむべきゆめなり神をば天照という国をば日本という、又教主釈尊をば日種と申す摩耶夫人・日をはらむと・ゆめにみて・まうけ給える太子なり、慈覚大師は大日如来を叡山に立て釈迦仏をすて真言の三部経をあがめて法華経の三部の敵となせしゆへに此の夢出現せり。
例せば漢土の善導が始は密州の明勝といゐし者に値うて法華経をよみたりしが後には道綽に値うて法華経をすて観経に依りて疏をつくり法華経をば千中無一・念仏をば十即十生・百即百生と定めて此の義を成ぜんがために
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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報恩抄 | 55 | 身延 |
日蓮大聖人御書
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報恩抄 317ページ
さにてあるやらん去ぬる文永十一年四月十二日の大風は阿弥陀堂の加賀法印・東寺第一の智者の雨のいのりに吹きたりし逆風なり、善無畏・金剛智・不空の悪法をすこしもたがへず伝えたりけるか心にくし心にくし。
弘法大師は去ぬる天長元年の二月大旱魃のありしに先には守敏・祈雨して七日が内に雨を下す但京中にふりて田舎にそそがず、次に弘法承取て一七日に雨気なし二七日に雲なし三七日と申せしに天子より和気の真綱を使者として御幣を神泉苑にまいらせたりしかば天雨下事三日、此れをば弘法大師並に弟子等此の雨をうばひとり我が雨として今に四百余年・弘法の雨という、慈覚大師の夢に日輪をいしと弘法大師の大妄語に云く弘仁九年の春・大疫をいのりしかば夜中に大日輪出現せりと云云、成劫より已来・住劫の第九の減・已上二十九劫が間に日輪夜中に出でしという事なし、慈覚大師は夢に日輪をいるという内典五千七千・外典三千余巻に日輪をいると・ゆめにみるは吉夢という事有りやいなや、修羅は帝釈をあだみて日天を・いたてまつる其の矢かへりて我が眼にたつ、殷の紂王は日天を的にいて身を亡す、日本の神武天皇の御時度美長と五瀬命と合戦ありしに命の手に矢たつ、命の云く我はこれ日天の子孫なり日に向い奉りて弓をひくゆへに日天のせめを・かをほれりと云云、阿闍世王は邪見をひるがえして仏に帰しまいらせて内裏に返りて・ぎよしんなりしが、おどろいて諸臣に向て云く日輪・天より地に落つと・ゆめにみる諸臣の云く仏の御入滅か云云、須跋陀羅がゆめ又かくのごとし、我国は殊にいむべきゆめなり神をば天照という国をば日本という、又教主釈尊をば日種と申す摩耶夫人・日をはらむと・ゆめにみて・まうけ給える太子なり、慈覚大師は大日如来を叡山に立て釈迦仏をすて真言の三部経をあがめて法華経の三部の敵となせしゆへに此の夢出現せり。
例せば漢土の善導が始は密州の明勝といゐし者に値うて法華経をよみたりしが後には道綽に値うて法華経をすて観経に依りて疏をつくり法華経をば千中無一・念仏をば十即十生・百即百生と定めて此の義を成ぜんがために
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