御書本文
枝の花房を釈尊より授けられ微笑して心の一法を霊山にして伝えたりとは自称するや、又祖師無用ならば何ぞ達磨大師を本尊とするや、又修多羅の法・無用ならば何ぞ朝夕の所作に真言陀羅尼をよみつるぞや、首楞厳経・金剛経・円覚経等を或は談じ或は読誦するや、又仏菩薩を信用せずんば何ぞ南無三宝と行住坐臥に唱うるやと責む可きなり、次に聞き知らざる言を以て種種申し狂はば云う可し、凡そ機には上中下の三根あり随つて法門も三根に与へて説事なり、禅宗の法門にも理致・機関・向上として三根に配て法門を示され候なり、御辺は某が機をば三根の中には何れと得意て聞知せざる法門を仰せられ候ぞや、又理致の分か機関の分か向上の分に候かと責む可きなり、理致と云うは下根に道理を云いきかせて禅の法門を知らする名目なり、機関とは中根には何なるか本来の面目と問へば庭前の柏樹子なんど答えたる様の言づかひをして禅法を示す様なり、向上と云うは上根の者の事なり此の機は祖師よりも伝えず仏よりも伝えず我として禅の法門を悟る機なり、迦葉・霊山微笑の花に依て心の一法を得たりと云う時に是れ尚・中根の機なり、所詮・禅の法門と云う事は迦葉一枝の花房を得しより已来出来せる法門なり、抑も伝えし時の花房は木の花か草の花か五色の中には何様なる色の花ぞや又花の葉は何重の葉ぞや委細に之を尋ぬ可きなり、此の花をありのままに云い出したる禅宗有らば実に心の一法をも一分得たる者と知る可きなり、設ひ得たりとは存知すとも真実の仏意には叶う可からず如何となれば法華経を信ぜざるが故なり、此の心は法華経の方便品の末長行に委く見えたり委は引て拝見し奉る可きなり、次に禅の法門何としても物に著する所を離れよと教えたる法門にて有るなり、さと云へば其れも情なりかうと云うも其れも情なりとあなた・こなたへ・すべりとどまらぬ法門にて候なり、夫れを責む可き様は他人の情に著したらん計りをば沙汰して己が情量に著し封ぜらる所をば知らざるなり、云うべき様は御辺は人の情計りをば責むれども御辺・情を情と執したる情をばなど離れ得ぬぞと反詰すべきなり、凡そ法として三世諸仏の説きのこしたる法は無きなり汝仏祖不伝と云つて仏祖
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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諸宗問答抄 | 34 | 三位房日行 | 鎌倉 |
日蓮大聖人御書
検索結果詳細 御書本文
諸宗問答抄 379ページ
枝の花房を釈尊より授けられ微笑して心の一法を霊山にして伝えたりとは自称するや、又祖師無用ならば何ぞ達磨大師を本尊とするや、又修多羅の法・無用ならば何ぞ朝夕の所作に真言陀羅尼をよみつるぞや、首楞厳経・金剛経・円覚経等を或は談じ或は読誦するや、又仏菩薩を信用せずんば何ぞ南無三宝と行住坐臥に唱うるやと責む可きなり、次に聞き知らざる言を以て種種申し狂はば云う可し、凡そ機には上中下の三根あり随つて法門も三根に与へて説事なり、禅宗の法門にも理致・機関・向上として三根に配て法門を示され候なり、御辺は某が機をば三根の中には何れと得意て聞知せざる法門を仰せられ候ぞや、又理致の分か機関の分か向上の分に候かと責む可きなり、理致と云うは下根に道理を云いきかせて禅の法門を知らする名目なり、機関とは中根には何なるか本来の面目と問へば庭前の柏樹子なんど答えたる様の言づかひをして禅法を示す様なり、向上と云うは上根の者の事なり此の機は祖師よりも伝えず仏よりも伝えず我として禅の法門を悟る機なり、迦葉・霊山微笑の花に依て心の一法を得たりと云う時に是れ尚・中根の機なり、所詮・禅の法門と云う事は迦葉一枝の花房を得しより已来出来せる法門なり、抑も伝えし時の花房は木の花か草の花か五色の中には何様なる色の花ぞや又花の葉は何重の葉ぞや委細に之を尋ぬ可きなり、此の花をありのままに云い出したる禅宗有らば実に心の一法をも一分得たる者と知る可きなり、設ひ得たりとは存知すとも真実の仏意には叶う可からず如何となれば法華経を信ぜざるが故なり、此の心は法華経の方便品の末長行に委く見えたり委は引て拝見し奉る可きなり、次に禅の法門何としても物に著する所を離れよと教えたる法門にて有るなり、さと云へば其れも情なりかうと云うも其れも情なりとあなた・こなたへ・すべりとどまらぬ法門にて候なり、夫れを責む可き様は他人の情に著したらん計りをば沙汰して己が情量に著し封ぜらる所をば知らざるなり、云うべき様は御辺は人の情計りをば責むれども御辺・情を情と執したる情をばなど離れ得ぬぞと反詰すべきなり、凡そ法として三世諸仏の説きのこしたる法は無きなり汝仏祖不伝と云つて仏祖
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