御書本文
断ぜん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と云云、此の文の心は若し人・此の経を信ぜずして此の経にそむかば則ち一切世間の仏のたねを・たつものなりその人は命をはらば無間地獄に入るべしと説き給へり、此等の文をうけて天台は将非魔作仏の詞正く此の文によれりと判じ給へり、唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり、之に依つて智証大師は経に大小なく理に偏円なしと云つて一切人によらば仏説無用なりと釈し給へり、天台は「若し深く所以有り復修多羅と合せるをば録して之を用ゆ無文無義は信受す可からず」と判じ給へり、又云く「文証無きは悉く是れ邪の謂い」とも云へり、いかが心得べきや。
問うて云く人師の釈はさも候べし爾前の諸経に此の経第一とも説き諸経の王とも宣べたり若し爾らば仏説なりとも用うべからず候か如何、答えて云く設い此の経第一とも諸経の王とも申し候へ皆是れ権教なり其の語によるべからず、之に依つて仏は「了義経によりて不了義経によらざれ」と説き妙楽大師は「縦い経有りて諸経の王と云うとも已今当説最為第一と云わざれば兼但対帯其の義知んぬ可し」と釈し給へり、此の釈の心は設ひ経ありて諸経の王とは云うとも前に説きつる経にも後に説かんずる経にも此の経はまされりと云はずば方便の経としれと云う釈なり、されば爾前の経の習として今説く経より後に又経を説くべき由を云はざるなり、唯法華経計りこそ最後の極説なるが故に已今当の中に此の経独り勝れたりと説かれて候へ、されば釈には「唯法華に至つて前教の意を説いて今教の意を顕す」と申して法華経にて如来の本意も教化の儀式も定りたりと見えたり、之に依つて天台は「如来成道・四十余年未だ真実を顕さず法華始めて真実を顕す」と云へり、此の文の心は如来・世に出でさせ給いて四十余年が間は真実の法をば顕さず法華経に始めて仏になる実の道を顕し給へりと釈し給へり。
問うて云く已今当の中に法華経・勝れたりと云う事はさも候べし、但し有人師の云く四十余年未顕真実と云うは法華経にて仏になる声聞の為なり爾前の得益の菩薩の為には未顕真実と云うべからずと云う義をばいかが心得
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
---|---|---|---|
持妙法華問答抄 | 42 | 鎌倉 |
日蓮大聖人御書
検索結果詳細 御書本文
持妙法華問答抄 462ページ
断ぜん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と云云、此の文の心は若し人・此の経を信ぜずして此の経にそむかば則ち一切世間の仏のたねを・たつものなりその人は命をはらば無間地獄に入るべしと説き給へり、此等の文をうけて天台は将非魔作仏の詞正く此の文によれりと判じ給へり、唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり、之に依つて智証大師は経に大小なく理に偏円なしと云つて一切人によらば仏説無用なりと釈し給へり、天台は「若し深く所以有り復修多羅と合せるをば録して之を用ゆ無文無義は信受す可からず」と判じ給へり、又云く「文証無きは悉く是れ邪の謂い」とも云へり、いかが心得べきや。
問うて云く人師の釈はさも候べし爾前の諸経に此の経第一とも説き諸経の王とも宣べたり若し爾らば仏説なりとも用うべからず候か如何、答えて云く設い此の経第一とも諸経の王とも申し候へ皆是れ権教なり其の語によるべからず、之に依つて仏は「了義経によりて不了義経によらざれ」と説き妙楽大師は「縦い経有りて諸経の王と云うとも已今当説最為第一と云わざれば兼但対帯其の義知んぬ可し」と釈し給へり、此の釈の心は設ひ経ありて諸経の王とは云うとも前に説きつる経にも後に説かんずる経にも此の経はまされりと云はずば方便の経としれと云う釈なり、されば爾前の経の習として今説く経より後に又経を説くべき由を云はざるなり、唯法華経計りこそ最後の極説なるが故に已今当の中に此の経独り勝れたりと説かれて候へ、されば釈には「唯法華に至つて前教の意を説いて今教の意を顕す」と申して法華経にて如来の本意も教化の儀式も定りたりと見えたり、之に依つて天台は「如来成道・四十余年未だ真実を顕さず法華始めて真実を顕す」と云へり、此の文の心は如来・世に出でさせ給いて四十余年が間は真実の法をば顕さず法華経に始めて仏になる実の道を顕し給へりと釈し給へり。
問うて云く已今当の中に法華経・勝れたりと云う事はさも候べし、但し有人師の云く四十余年未顕真実と云うは法華経にて仏になる声聞の為なり爾前の得益の菩薩の為には未顕真実と云うべからずと云う義をばいかが心得
- 自由語検索