御書本文
て迹門開三顕一の蓮華は爾前に之を説かずと云うなり、何に況んや開近顕遠・本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華をば迹化弥勒等之を知る可きや、問う何を以て爾前の円の菩薩・迹門の円の菩薩は本門の当体蓮華を証得せずと云う事を知ることを得ん、答う爾前の円の菩薩は迹門の蓮華を知らず迹門の円の菩薩は本門の蓮華を知らざるなり、天台云く「権教の補処は迹化の衆を知らず迹化の衆は本化の衆を知らず」文、伝教大師云く「是直道なりと雖も大直道ならず」云云、或は云く「未だ菩提の大直道を知らざるが故に」云云此の意なり、爾前迹門の菩薩は一分断惑証理の義分有りと雖も本門に対するの時は当分の断惑にして跨節の断惑に非ず未断惑と云わるるなり、然れば菩薩処処得入と釈すれども二乗を嫌うの時一往得入の名を与うるなり、故に爾前迹門の大菩薩が仏の蓮華を証得する事は本門の時なり真実の断惑は寿量の一品を聞きし時なり、天台大師・涌出品の五十小劫・仏の神力の故に・諸の大衆をして半日の如しと謂わしむの文を釈して云く「解者は短に即して長・五十小劫と見る惑者は長に即して短・半日の如しと謂えり」文、妙楽之を受けて釈して云く「菩薩已に無明を破す之を称して解と為す大衆仍お賢位に居す之を名けて惑と為す」文、釈の意分明なり爾前迹門の菩薩は惑者なり地涌の菩薩のみ独り解者なりと云う事なり、然るに当世天台宗の人の中に本迹の同異を論ずる時・異り無しと云つて此の文を料簡するに解者の中に迹化の衆入りたりと云うは大なる僻見なり経の文・釈の義分明なり何ぞ横計を為す可けんや、文の如きは地涌の菩薩五十小劫の間如来を称揚するを霊山迹化の衆は半日の如く謂えりと説き給えるを天台は解者惑者を出して迹化の衆は惑者の故に半日と思えり是れ即ち僻見なり、地涌の菩薩は解者の故に五十小劫と見る是れ即ち正見なりと釈し給えるなり、妙楽之を受けて無明を破する菩薩は解者なり未だ無明を破せざる菩薩は惑者なりと釈し給いし事文に在つて分明なり、迹化の菩薩なりとも住上の菩薩は已に無明を破する菩薩なりと云わん学者は無得道の諸経を有得道と習いし故なり、爾前迹門の当分に妙覚の位有りと雖も本門寿量の真仏に
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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当体義抄 | 52 | 佐渡 |
日蓮大聖人御書
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当体義抄 517ページ
て迹門開三顕一の蓮華は爾前に之を説かずと云うなり、何に況んや開近顕遠・本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華をば迹化弥勒等之を知る可きや、問う何を以て爾前の円の菩薩・迹門の円の菩薩は本門の当体蓮華を証得せずと云う事を知ることを得ん、答う爾前の円の菩薩は迹門の蓮華を知らず迹門の円の菩薩は本門の蓮華を知らざるなり、天台云く「権教の補処は迹化の衆を知らず迹化の衆は本化の衆を知らず」文、伝教大師云く「是直道なりと雖も大直道ならず」云云、或は云く「未だ菩提の大直道を知らざるが故に」云云此の意なり、爾前迹門の菩薩は一分断惑証理の義分有りと雖も本門に対するの時は当分の断惑にして跨節の断惑に非ず未断惑と云わるるなり、然れば菩薩処処得入と釈すれども二乗を嫌うの時一往得入の名を与うるなり、故に爾前迹門の大菩薩が仏の蓮華を証得する事は本門の時なり真実の断惑は寿量の一品を聞きし時なり、天台大師・涌出品の五十小劫・仏の神力の故に・諸の大衆をして半日の如しと謂わしむの文を釈して云く「解者は短に即して長・五十小劫と見る惑者は長に即して短・半日の如しと謂えり」文、妙楽之を受けて釈して云く「菩薩已に無明を破す之を称して解と為す大衆仍お賢位に居す之を名けて惑と為す」文、釈の意分明なり爾前迹門の菩薩は惑者なり地涌の菩薩のみ独り解者なりと云う事なり、然るに当世天台宗の人の中に本迹の同異を論ずる時・異り無しと云つて此の文を料簡するに解者の中に迹化の衆入りたりと云うは大なる僻見なり経の文・釈の義分明なり何ぞ横計を為す可けんや、文の如きは地涌の菩薩五十小劫の間如来を称揚するを霊山迹化の衆は半日の如く謂えりと説き給えるを天台は解者惑者を出して迹化の衆は惑者の故に半日と思えり是れ即ち僻見なり、地涌の菩薩は解者の故に五十小劫と見る是れ即ち正見なりと釈し給えるなり、妙楽之を受けて無明を破する菩薩は解者なり未だ無明を破せざる菩薩は惑者なりと釈し給いし事文に在つて分明なり、迹化の菩薩なりとも住上の菩薩は已に無明を破する菩薩なりと云わん学者は無得道の諸経を有得道と習いし故なり、爾前迹門の当分に妙覚の位有りと雖も本門寿量の真仏に
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