御書本文
非ざるなり、正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非るなり、所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり、されば文句四に云く「相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり」経に如来現在猶多怨嫉況滅度後と云う是なり、法華経不信の者を以て五濁障重の者とす経に云く「以五濁悪世但楽著諸欲如是等衆生終不求仏道」云云、仏道とは法華経の別名なり天台云く「仏道とは別して今経を指す」と。
第五比丘比丘尼有懐増上慢優婆塞我慢優婆夷不信の事 文句の四に云く上慢と我慢と不信と四衆通じて有り、但し出家の二衆は多く道を修し禅を得て謬て聖果と謂い偏に上慢を起す、在俗は矜高にして多く我慢を起す女人は智浅くして多く邪僻を生ず自ら其の過を見ずとは三失心を覆う、疵を蔵くし徳を揚げて自ら省ること能わざるは是れ無慙の人なり、若し自ら過を見れば是れ有羞の僧なり記の四に云く疵を蔵くす等とは三失を釈するなり疵を蔵くし徳を揚ぐは上慢を釈す、自ら省ること能わざるは我慢を釈す、無慙の人とは不信を釈す、若し自ら過を見るは此の三失無し未だ果を証せずと雖も且らく有羞と名く。
御義口伝に云く此本末の釈の意は五千の上慢を釈するなり委くは本末を見る可きなり、比丘比丘尼の二人は出家なり共に増上慢と名く疵を蔵くし徳を揚ぐるを以て本とせり、優婆塞は男なり我慢を以て本とせり優婆夷は女人なり無慙を以て本とせり、此の四衆は今日本国に盛んなり経には其数有五千と有れども日本国に四十九億九万四千八百廿八人と見えたり、在世には五千人・仏の座を立てり今末法にては日本国の一切衆生悉く日蓮が所座を立てり、比丘比丘尼増上慢とは道隆良観等に非ずや又鎌倉中の比丘尼等に非ずや、優婆塞とは最明寺優婆夷とは上下の女人に非ずや敢て我が過を知る可からざるなり、今日蓮等の類いを誹謗して悪名を立つ豈不
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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御義口伝巻上 | 身延 |
日蓮大聖人御書
検索結果詳細 御書本文
御義口伝巻上 718ページ
非ざるなり、正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非るなり、所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり、されば文句四に云く「相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり」経に如来現在猶多怨嫉況滅度後と云う是なり、法華経不信の者を以て五濁障重の者とす経に云く「以五濁悪世但楽著諸欲如是等衆生終不求仏道」云云、仏道とは法華経の別名なり天台云く「仏道とは別して今経を指す」と。
第五比丘比丘尼有懐増上慢優婆塞我慢優婆夷不信の事 文句の四に云く上慢と我慢と不信と四衆通じて有り、但し出家の二衆は多く道を修し禅を得て謬て聖果と謂い偏に上慢を起す、在俗は矜高にして多く我慢を起す女人は智浅くして多く邪僻を生ず自ら其の過を見ずとは三失心を覆う、疵を蔵くし徳を揚げて自ら省ること能わざるは是れ無慙の人なり、若し自ら過を見れば是れ有羞の僧なり記の四に云く疵を蔵くす等とは三失を釈するなり疵を蔵くし徳を揚ぐは上慢を釈す、自ら省ること能わざるは我慢を釈す、無慙の人とは不信を釈す、若し自ら過を見るは此の三失無し未だ果を証せずと雖も且らく有羞と名く。
御義口伝に云く此本末の釈の意は五千の上慢を釈するなり委くは本末を見る可きなり、比丘比丘尼の二人は出家なり共に増上慢と名く疵を蔵くし徳を揚ぐるを以て本とせり、優婆塞は男なり我慢を以て本とせり優婆夷は女人なり無慙を以て本とせり、此の四衆は今日本国に盛んなり経には其数有五千と有れども日本国に四十九億九万四千八百廿八人と見えたり、在世には五千人・仏の座を立てり今末法にては日本国の一切衆生悉く日蓮が所座を立てり、比丘比丘尼増上慢とは道隆良観等に非ずや又鎌倉中の比丘尼等に非ずや、優婆塞とは最明寺優婆夷とは上下の女人に非ずや敢て我が過を知る可からざるなり、今日蓮等の類いを誹謗して悪名を立つ豈不
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