御書本文
の題目を持ち奉る者は豈多有田宅の長者に非ずや、今末法に入つて日蓮等の類・多有田宅の本主として如説修行の行者なり云云。
一等一大車の事 仰に云く此の大車とは直至道場の大白牛車にして其の疾きこと風の如し、所詮南無妙法蓮華経を等一大車と云うなり、等と云うは諸法実相なり、一とは唯有一乗法なり、大とは大乗なり、車とは一念三千なり、仍つて釈には等の字を子等車等と釈せり、子等の等と如我等無異の等とは同なり、車等の等は平等大慧の等なり、今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は男女・貴賤共に無上宝聚・不求自得の金言を持つ者なり、智者愚者をきらわず共に即身成仏なり云云、疏の五に云く一に等子・二に等車・子等しきを以ての故に則ち心等し、一切衆生等しく仏性有るに譬う、仏性同じきが故に等しく是れ子なり、第二に車等とは法等しきを以ての故に仏法に非ざること無し、一切法皆摩訶衍なるに譬う、摩訶衍同じきが故に等しく是れ大車なり、而して各賜と言うは各々本習に随う、四諦六度無量の諸法・各各旧習に於て真実を開示す、旧習同じからず故に各と言う、皆摩訶衍なり故に大車と言う云云。
一其車高広の事 仰に云く此の車は南無妙法蓮華経なり、即ち我等衆生の体なり、法華一部の総体なり、高広とは仏知見なり、されば此の車を方便品の時は諸仏智慧と説き其の智慧を甚深無量と称歎せり、歎の言には甚深無量とほめたり、爰には其車と説いて高広とほめたり、されば文句の五に云く其車高広の下は如来の知見深遠なるに譬う、横に法界の辺際に周く・竪に三諦の源底に徹す故に高広と言うなりと、所詮此の如来とは一切衆生の事なり既に諸法実相の仏なるが故なり、知見とは色心の二法なり知は心法・見は色法なり、色心二法を高広と云えり、高広即本迹二門なり此れ即ち南無妙法蓮華経なり云云。
一是朽故宅属于一人の事 仰に云く此の文をば文句の五に云く失火の由を明す文、此の宅とは三界の火宅な
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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御講聞書 | 身延 |
日蓮大聖人御書
検索結果詳細 御書本文
御講聞書 820ページ
の題目を持ち奉る者は豈多有田宅の長者に非ずや、今末法に入つて日蓮等の類・多有田宅の本主として如説修行の行者なり云云。
一等一大車の事 仰に云く此の大車とは直至道場の大白牛車にして其の疾きこと風の如し、所詮南無妙法蓮華経を等一大車と云うなり、等と云うは諸法実相なり、一とは唯有一乗法なり、大とは大乗なり、車とは一念三千なり、仍つて釈には等の字を子等車等と釈せり、子等の等と如我等無異の等とは同なり、車等の等は平等大慧の等なり、今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は男女・貴賤共に無上宝聚・不求自得の金言を持つ者なり、智者愚者をきらわず共に即身成仏なり云云、疏の五に云く一に等子・二に等車・子等しきを以ての故に則ち心等し、一切衆生等しく仏性有るに譬う、仏性同じきが故に等しく是れ子なり、第二に車等とは法等しきを以ての故に仏法に非ざること無し、一切法皆摩訶衍なるに譬う、摩訶衍同じきが故に等しく是れ大車なり、而して各賜と言うは各々本習に随う、四諦六度無量の諸法・各各旧習に於て真実を開示す、旧習同じからず故に各と言う、皆摩訶衍なり故に大車と言う云云。
一其車高広の事 仰に云く此の車は南無妙法蓮華経なり、即ち我等衆生の体なり、法華一部の総体なり、高広とは仏知見なり、されば此の車を方便品の時は諸仏智慧と説き其の智慧を甚深無量と称歎せり、歎の言には甚深無量とほめたり、爰には其車と説いて高広とほめたり、されば文句の五に云く其車高広の下は如来の知見深遠なるに譬う、横に法界の辺際に周く・竪に三諦の源底に徹す故に高広と言うなりと、所詮此の如来とは一切衆生の事なり既に諸法実相の仏なるが故なり、知見とは色心の二法なり知は心法・見は色法なり、色心二法を高広と云えり、高広即本迹二門なり此れ即ち南無妙法蓮華経なり云云。
一是朽故宅属于一人の事 仰に云く此の文をば文句の五に云く失火の由を明す文、此の宅とは三界の火宅な
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