御書本文
の位に至るを直至道場とは云うなり、直至と云う文の意は、四十二位を爰にて極めたり、此の直の一字は、地獄即寂光・餓鬼即寂光土なり、法華経の行者の住処、山谷曠野なりとも、直至道場なり、道場とは究竟の寂光なり、仍つて乗此宝乗の上の乗は法華の行者、此の品の意にては中根の四大声聞なり、惣じて一切衆生の事なり、今末法に入つては日蓮等の類いなり、宝乗の乗の字は大白牛車の妙法蓮華経なり、然れば上の乗は能乗・下の乗は所乗なり、宝乗は蓮華なり、釈迦・多宝等の諸仏も、此の宝乗に乗じ給えり、此れを提婆品に重ねて説く時・若在仏前蓮華化生と云云、釈迦・多宝の二仏は我等が己心なり、此の己心の法華経に値い奉つて成仏するを顕わさんとして釈迦・多宝・二仏・並座して乗此宝乗・直至道場を顕わし給えり、此の乗とは車なり、車は蓮華なり、此の蓮華の上の妙法は、我等が生死の二法・二仏なり、直至の至は此れより彼へいたるの至るには非ず住処即寂光と云うを至とは云うなり、此の宝乗の宝は七宝の大車なり、七宝即ち頭上の七穴・七穴即ち末法の要法・南無妙法蓮華経是なり、此の題目の五字、我等衆生の為には、三途の河にては船となり、紅蓮地獄にては寒さをのぞき、焦熱地獄にては凉風となり、死出の山にては蓮華となり、渇せる時は水となり・飢えたる時は食となり、裸かなる時は衣となり、妻となり、子となり、眷属となり、家となり、無窮の応用を施して一切衆生を利益し給うなり、直至道場とは是なり、仍つて此の身を取りも直さず寂光土に居るを直至道場とは云うなり、直の字心を留めて之を案ず可し云云。
一若人不信毀謗此経則断一切世間仏種の事 仰に云く此の経文の意は小善成仏を信ぜずんば一切世間の仏種を断ずと云う事なり、文句の五に云く、今経に小善成仏を明す、此れは縁因を取つて仏種と為す、若し小善の成仏を信ぜずんば、即ち一切世間の仏種を断ずるなり文、爾前経の心は小善成仏を明さざるなり、法華経の意は一華・一香の小善も法華経に帰すれば大善となる、縦い法界に充満せる大善なりとも此の経に値わずんば善根とは
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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御講聞書 | 身延 |
日蓮大聖人御書
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御講聞書 822ページ
の位に至るを直至道場とは云うなり、直至と云う文の意は、四十二位を爰にて極めたり、此の直の一字は、地獄即寂光・餓鬼即寂光土なり、法華経の行者の住処、山谷曠野なりとも、直至道場なり、道場とは究竟の寂光なり、仍つて乗此宝乗の上の乗は法華の行者、此の品の意にては中根の四大声聞なり、惣じて一切衆生の事なり、今末法に入つては日蓮等の類いなり、宝乗の乗の字は大白牛車の妙法蓮華経なり、然れば上の乗は能乗・下の乗は所乗なり、宝乗は蓮華なり、釈迦・多宝等の諸仏も、此の宝乗に乗じ給えり、此れを提婆品に重ねて説く時・若在仏前蓮華化生と云云、釈迦・多宝の二仏は我等が己心なり、此の己心の法華経に値い奉つて成仏するを顕わさんとして釈迦・多宝・二仏・並座して乗此宝乗・直至道場を顕わし給えり、此の乗とは車なり、車は蓮華なり、此の蓮華の上の妙法は、我等が生死の二法・二仏なり、直至の至は此れより彼へいたるの至るには非ず住処即寂光と云うを至とは云うなり、此の宝乗の宝は七宝の大車なり、七宝即ち頭上の七穴・七穴即ち末法の要法・南無妙法蓮華経是なり、此の題目の五字、我等衆生の為には、三途の河にては船となり、紅蓮地獄にては寒さをのぞき、焦熱地獄にては凉風となり、死出の山にては蓮華となり、渇せる時は水となり・飢えたる時は食となり、裸かなる時は衣となり、妻となり、子となり、眷属となり、家となり、無窮の応用を施して一切衆生を利益し給うなり、直至道場とは是なり、仍つて此の身を取りも直さず寂光土に居るを直至道場とは云うなり、直の字心を留めて之を案ず可し云云。
一若人不信毀謗此経則断一切世間仏種の事 仰に云く此の経文の意は小善成仏を信ぜずんば一切世間の仏種を断ずと云う事なり、文句の五に云く、今経に小善成仏を明す、此れは縁因を取つて仏種と為す、若し小善の成仏を信ぜずんば、即ち一切世間の仏種を断ずるなり文、爾前経の心は小善成仏を明さざるなり、法華経の意は一華・一香の小善も法華経に帰すれば大善となる、縦い法界に充満せる大善なりとも此の経に値わずんば善根とは
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