御書本文

大田殿許御書 太田殿女房御返事
1,005ページ

随つて伝教大師・依憑集を造つて之を集む眼有らん者は開いて之を見よ、冀哉末代の学者妙楽・伝教の聖言に随つて善無畏・慈覚の凡言を用ゆること勿れ、予が門家等深く此の由を存ぜよ、今生に人を恐れて後生に悪果を招くこと勿れ、恐恐謹言。
 正月廿四日 日 蓮花押
 大田金吾入道殿

太田殿女房御返事

 太田殿女房御返事 建治元年 五十四歳御作
 於身延
 八月分の八木一石給候い了んぬ、即身成仏と申す法門は諸大乗経・並びに大日経等の経文に分明に候ぞ、爾ればとて彼の経経の人人の即身成仏と申すは二の増上慢に堕ちて必ず無間地獄へ入り候なり、記の九に云く「然して二の上慢深浅無きにあらず如と謂うは乃ち大無慙の人と成る」等云云、諸大乗経の煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門はいみじくをそたかき・やうなれども此れはあえて即身成仏の法門にはあらず、其の心は二乗と申す者は鹿苑にして見思を断じて・いまだ塵沙無明をば断ぜざる者が我は已に煩悩を尽したり無余に入りて灰身滅智の者となれり、灰身なれば即身にあらず滅智なれば成仏の義なし、されば凡夫は煩悩業もあり苦果の依身も失う事なければ煩悩業を種として報身・応身ともなりなん、苦果あれば生死即涅槃とて法身如来ともなりなんと二乗をこそ弾呵せさせ給いしか、さればとて煩悩・業・苦が三身の種とはなり候はず、今法華経にして有余・無余の二乗が無き煩悩・業・苦をとり出して即身成仏と説き給う時二乗の即身成仏するのみならず凡夫も即身成仏するなり

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
大田殿許御書 54   身延
太田殿女房御返事 54   身延

日蓮大聖人御書

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大田殿許御書 太田殿女房御返事 1,005ページ

随つて伝教大師・依憑集を造つて之を集む眼有らん者は開いて之を見よ、冀哉末代の学者妙楽・伝教の聖言に随つて善無畏・慈覚の凡言を用ゆること勿れ、予が門家等深く此の由を存ぜよ、今生に人を恐れて後生に悪果を招くこと勿れ、恐恐謹言。
 正月廿四日 日 蓮花押
 大田金吾入道殿

太田殿女房御返事

 太田殿女房御返事 建治元年 五十四歳御作
 於身延
 八月分の八木一石給候い了んぬ、即身成仏と申す法門は諸大乗経・並びに大日経等の経文に分明に候ぞ、爾ればとて彼の経経の人人の即身成仏と申すは二の増上慢に堕ちて必ず無間地獄へ入り候なり、記の九に云く「然して二の上慢深浅無きにあらず如と謂うは乃ち大無慙の人と成る」等云云、諸大乗経の煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門はいみじくをそたかき・やうなれども此れはあえて即身成仏の法門にはあらず、其の心は二乗と申す者は鹿苑にして見思を断じて・いまだ塵沙無明をば断ぜざる者が我は已に煩悩を尽したり無余に入りて灰身滅智の者となれり、灰身なれば即身にあらず滅智なれば成仏の義なし、されば凡夫は煩悩業もあり苦果の依身も失う事なければ煩悩業を種として報身・応身ともなりなん、苦果あれば生死即涅槃とて法身如来ともなりなんと二乗をこそ弾呵せさせ給いしか、さればとて煩悩・業・苦が三身の種とはなり候はず、今法華経にして有余・無余の二乗が無き煩悩・業・苦をとり出して即身成仏と説き給う時二乗の即身成仏するのみならず凡夫も即身成仏するなり


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