御書本文
聖人御難事
聖人御難事 弘安二年十月 五十八歳御作
与門人等
去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に安房の国長狭郡の内東条の郷・今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり、此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり。
法華経に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」云云、釈迦如来の大難はかずをしらず、其の中に馬の麦をもつて九十日・小指の出仏身血・大石の頂にかかりし、善星比丘等の八人が身は仏の御弟子・心は外道にともないて昼夜十二時に仏の短をねらいし、無量の釈子の波瑠璃王に殺されし・無量の弟子等が悪象にふまれし・阿闍世王の大難をなせし等、此等は如来現在の小難なり、況滅度後の大難は竜樹・天親・天台・伝教いまだ値い給はず・法華経の行者ならずと・いわば・いかでか行者にて・をはせざるべき、又行者といはんとすれば仏のごとく身より血をあやされず、何に況や仏に過ぎたる大難なし経文むなしきがごとし、仏説すでに大虚妄となりぬ。
而るに日蓮二十七年が間・弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる、同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず、仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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聖人御難事 | 58 | 門人等 |
日蓮大聖人御書
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聖人御難事 1,189ページ
聖人御難事
聖人御難事 弘安二年十月 五十八歳御作
与門人等
去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に安房の国長狭郡の内東条の郷・今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり、此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり。
法華経に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」云云、釈迦如来の大難はかずをしらず、其の中に馬の麦をもつて九十日・小指の出仏身血・大石の頂にかかりし、善星比丘等の八人が身は仏の御弟子・心は外道にともないて昼夜十二時に仏の短をねらいし、無量の釈子の波瑠璃王に殺されし・無量の弟子等が悪象にふまれし・阿闍世王の大難をなせし等、此等は如来現在の小難なり、況滅度後の大難は竜樹・天親・天台・伝教いまだ値い給はず・法華経の行者ならずと・いわば・いかでか行者にて・をはせざるべき、又行者といはんとすれば仏のごとく身より血をあやされず、何に況や仏に過ぎたる大難なし経文むなしきがごとし、仏説すでに大虚妄となりぬ。
而るに日蓮二十七年が間・弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる、同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず、仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を
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