御書本文

神国王御書
1,517ページ

代には・にるべくもなき変夭なり、第三十三代崇峻天皇の御宇より仏法我が朝に崇められて・第三十四代推古天皇の御宇に盛にひろまりき、此の時三論宗と成実宗と申す宗始めて渡りて候いき、此の三論宗は月氏にても漢土にても、日本にても大乗宗の始なり、故に宗の母とも宗の父とも申す、人王三十六代・皇極天皇の御宇に禅宗わたる、人王四十代・天武の御宇に法相宗わたる、人王四十四代・元正天皇の御宇に大日経わたる、人王四十五代に聖武天皇の御宇に華厳宗を弘通せさせ給う、人王四十六代・孝謙天皇の御宇に律宗と法華宗わたる、しかりといへども唯律宗計りを弘めて天台法華宗は弘通なし。
 人王第五十代に最澄と申す聖人あり、法華宗を我と見出して倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗等の六宗をせめをとし給うのみならず、漢土に大日宗と申す宗有りとしろしめせり、同じき御宇に漢土にわたりて四宗をならいわたし給う、所謂法華宗・真言宗・禅宗・大乗の律宗なり、しかりといへども法華宗と律宗とをば弘通ありて禅宗をば弘め給はず、真言宗をば宗の字をけづり七大寺等の諸僧に灌頂を許し給う、然れども世間の人人は・いかなる故という事をしらず、当時の人人の云く此の人は漢土にて法華宗をば委細にならいて・真言宗をばくはしくも知ろし食し給はざりけるかと・すいし申すなり。
 同じき御宇に空海と申す人漢土にわたりて真言宗をならう、しかりといへども・いまだ此の御代には帰朝なし、人王第五十一代に平城天皇の御宇に帰朝あり、五十二代嵯峨の天皇の御宇に弘仁十四年癸卯正月十九日に・真言宗の住処・東寺を給いて護国教王院とがうす、伝教大師御入滅の一年の後なり。
 人王五十四代・仁明天皇の御宇に円仁和尚・漢土にわたりて重ねて法華・真言の二宗をならいわたす、人王五十五代・文徳天皇の御宇に仁寿と斉衡とに金剛頂経の疏・蘇悉地経の疏・已上十四巻を造りて大日経の義釈に並べて真言宗の三部とがうし、比叡山の内に総持院を建立し真言宗を弘通する事此の時なり、叡山に真言宗を許されしか

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
神国王御書 54   身延

日蓮大聖人御書

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神国王御書 1,517ページ

代には・にるべくもなき変夭なり、第三十三代崇峻天皇の御宇より仏法我が朝に崇められて・第三十四代推古天皇の御宇に盛にひろまりき、此の時三論宗と成実宗と申す宗始めて渡りて候いき、此の三論宗は月氏にても漢土にても、日本にても大乗宗の始なり、故に宗の母とも宗の父とも申す、人王三十六代・皇極天皇の御宇に禅宗わたる、人王四十代・天武の御宇に法相宗わたる、人王四十四代・元正天皇の御宇に大日経わたる、人王四十五代に聖武天皇の御宇に華厳宗を弘通せさせ給う、人王四十六代・孝謙天皇の御宇に律宗と法華宗わたる、しかりといへども唯律宗計りを弘めて天台法華宗は弘通なし。
 人王第五十代に最澄と申す聖人あり、法華宗を我と見出して倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗等の六宗をせめをとし給うのみならず、漢土に大日宗と申す宗有りとしろしめせり、同じき御宇に漢土にわたりて四宗をならいわたし給う、所謂法華宗・真言宗・禅宗・大乗の律宗なり、しかりといへども法華宗と律宗とをば弘通ありて禅宗をば弘め給はず、真言宗をば宗の字をけづり七大寺等の諸僧に灌頂を許し給う、然れども世間の人人は・いかなる故という事をしらず、当時の人人の云く此の人は漢土にて法華宗をば委細にならいて・真言宗をばくはしくも知ろし食し給はざりけるかと・すいし申すなり。
 同じき御宇に空海と申す人漢土にわたりて真言宗をならう、しかりといへども・いまだ此の御代には帰朝なし、人王第五十一代に平城天皇の御宇に帰朝あり、五十二代嵯峨の天皇の御宇に弘仁十四年癸卯正月十九日に・真言宗の住処・東寺を給いて護国教王院とがうす、伝教大師御入滅の一年の後なり。
 人王五十四代・仁明天皇の御宇に円仁和尚・漢土にわたりて重ねて法華・真言の二宗をならいわたす、人王五十五代・文徳天皇の御宇に仁寿と斉衡とに金剛頂経の疏・蘇悉地経の疏・已上十四巻を造りて大日経の義釈に並べて真言宗の三部とがうし、比叡山の内に総持院を建立し真言宗を弘通する事此の時なり、叡山に真言宗を許されしか


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