御書本文
ば父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず、孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり、礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため・王臣を教て尊卑をさだめ父母を教て孝の高きをしらしめ師匠を教て帰依をしらしむ、妙楽大師云く「仏教の流化実に玆に頼る礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」等云云、天台云く「金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」等云云、止観に云く「我れ三聖を遣わして彼の真丹を化す」等云云、弘決に云く「清浄法行経に云く月光菩薩彼に顔回と称し光浄菩薩彼に仲尼と称し迦葉菩薩彼に老子と称す天竺より此の震旦を指して彼と為す」等云云。
二には月氏の外道・三目八臂の摩醯首羅天・毘紐天・此の二天をば一切衆生の慈父・悲母・又天尊・主君と号す、迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆・此の三人をば三仙となづく、此等は仏前八百年・已前已後の仙人なり、此の三仙の所説を四韋陀と号す六万蔵あり、乃至・仏・出世に当つて六師外道・此の外経を習伝して五天竺の王の師となる支流・九十五六等にもなれり、一一に流流多くして我慢の幢・高きこと非想天にもすぎ執心の心の堅きこと金石にも超えたり、其の見の深きこと巧みなるさま儒家には・にるべくもなし、或は過去・二生・三生・乃至七生・八万劫を照見し又兼て未来・八万劫をしる、其の所説の法門の極理・或は因中有果・或は因中無果・或は因中亦有果・亦無果等云云、此れ外道の極理なり所謂善き外道は五戒・十善戒等を持つて有漏の禅定を修し上・色・無色をきわめ上界を涅槃と立て屈歩虫のごとく・せめのぼれども非想天より返つて三悪道に堕つ一人として天に留るものなし而れども天を極むる者は永くかへらずと・をもえり、各各・自師の義をうけて堅く執するゆへに或は冬寒に一日に三度・恒河に浴し或は髪をぬき或は巌に身をなげ或は身を火にあぶり或は五処をやく或は裸形或は馬を多く殺せば福をう或は草木をやき或は一切の木を礼す、此等の邪義其の数をしらず師を恭敬する事・諸天の帝釈をうやまい諸臣の皇
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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開目抄上 | 51 | 門下一同 | 佐渡 |
日蓮大聖人御書
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開目抄上 187ページ
ば父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず、孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり、礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため・王臣を教て尊卑をさだめ父母を教て孝の高きをしらしめ師匠を教て帰依をしらしむ、妙楽大師云く「仏教の流化実に玆に頼る礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」等云云、天台云く「金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」等云云、止観に云く「我れ三聖を遣わして彼の真丹を化す」等云云、弘決に云く「清浄法行経に云く月光菩薩彼に顔回と称し光浄菩薩彼に仲尼と称し迦葉菩薩彼に老子と称す天竺より此の震旦を指して彼と為す」等云云。
二には月氏の外道・三目八臂の摩醯首羅天・毘紐天・此の二天をば一切衆生の慈父・悲母・又天尊・主君と号す、迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆・此の三人をば三仙となづく、此等は仏前八百年・已前已後の仙人なり、此の三仙の所説を四韋陀と号す六万蔵あり、乃至・仏・出世に当つて六師外道・此の外経を習伝して五天竺の王の師となる支流・九十五六等にもなれり、一一に流流多くして我慢の幢・高きこと非想天にもすぎ執心の心の堅きこと金石にも超えたり、其の見の深きこと巧みなるさま儒家には・にるべくもなし、或は過去・二生・三生・乃至七生・八万劫を照見し又兼て未来・八万劫をしる、其の所説の法門の極理・或は因中有果・或は因中無果・或は因中亦有果・亦無果等云云、此れ外道の極理なり所謂善き外道は五戒・十善戒等を持つて有漏の禅定を修し上・色・無色をきわめ上界を涅槃と立て屈歩虫のごとく・せめのぼれども非想天より返つて三悪道に堕つ一人として天に留るものなし而れども天を極むる者は永くかへらずと・をもえり、各各・自師の義をうけて堅く執するゆへに或は冬寒に一日に三度・恒河に浴し或は髪をぬき或は巌に身をなげ或は身を火にあぶり或は五処をやく或は裸形或は馬を多く殺せば福をう或は草木をやき或は一切の木を礼す、此等の邪義其の数をしらず師を恭敬する事・諸天の帝釈をうやまい諸臣の皇
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