御書本文

開目抄上
199ページ

みざるべしや此をのせざるべしやこれを信じて伝えざるべしや、弥勒菩薩に問いたてまつらざるべしや、汝は法華経の文に依るやうなれども天台・妙楽・伝教の僻見を信受して其の見をもつて経文をみるゆえに爾前に法華経は水火なりと見るなり、華厳宗と真言宗は法相・三論にはにるべくもなき超過の宗なり、二乗作仏・久遠実成は法華経に限らず華厳経・大日経に分明なり、華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観・真言宗の善無畏・金剛智・不空等は天台・伝教には・にるべくもなき高位の人なり、其の上善無畏等は大日如来より糸みだれざる相承あり、此等の権化の人いかでか悞りあるべき、随つて華厳経には「或は釈迦・仏道を成じ已つて不可思議劫を経るを見る」等云云、大日経には「我れは一切の本初なり」等云云、何ぞ但久遠実成・寿量品に限らん、譬へば井底の蝦が大海を見ず山左が洛中を・しらざるがごとし、汝但寿量の一品を見て華厳・大日経等の諸経をしらざるか、其の上月氏・尸那・新羅・百済等にも一同に二乗作仏・久遠実成は法華経に限るというか。
 されば八箇年の経は四十余年の経経には相違せりというとも先判・後判の中には後判につくべしというとも猶爾前づりにこそをぼうれ、又、但在世計りならば・さもあるべきに滅後に居せる論師・人師・多は爾前づりにこそ候へ、かう法華経は信じがたき上、世もやうやく末になれば聖賢はやうやく・かくれ迷者はやうやく多し、世間の浅き事すら猶あやまりやすし何に況や出世の深法悞なかるべしや、犢子・方広が聡敏なりし猶を大小乗経にあやまてり、無垢・摩沓が利根なりし権実・二教を弁えず、正法一千年の内、在世も近く月氏の内なりし・すでにかくのごとし、況や尸那・日本等は国もへだて音もかはれり人の根も鈍なり寿命も日あさし貪瞋癡も倍増せり、仏世を去つてとし久し仏経みなあやまれり誰れの智解か直かるべき、仏涅槃経に記して云く「末法には正法の者は爪上の土・謗法の者は十方の土」とみへぬ、法滅尽経に云く「謗法の者は恒河沙・正法の者は一二の小石」と記しをき給う、千年・五百年に一人なんども正法の者ありがたからん、世間の罪に依つて悪道に堕る者は爪上の土・仏

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
開目抄上 51 門下一同 佐渡

日蓮大聖人御書

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開目抄上 199ページ

みざるべしや此をのせざるべしやこれを信じて伝えざるべしや、弥勒菩薩に問いたてまつらざるべしや、汝は法華経の文に依るやうなれども天台・妙楽・伝教の僻見を信受して其の見をもつて経文をみるゆえに爾前に法華経は水火なりと見るなり、華厳宗と真言宗は法相・三論にはにるべくもなき超過の宗なり、二乗作仏・久遠実成は法華経に限らず華厳経・大日経に分明なり、華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観・真言宗の善無畏・金剛智・不空等は天台・伝教には・にるべくもなき高位の人なり、其の上善無畏等は大日如来より糸みだれざる相承あり、此等の権化の人いかでか悞りあるべき、随つて華厳経には「或は釈迦・仏道を成じ已つて不可思議劫を経るを見る」等云云、大日経には「我れは一切の本初なり」等云云、何ぞ但久遠実成・寿量品に限らん、譬へば井底の蝦が大海を見ず山左が洛中を・しらざるがごとし、汝但寿量の一品を見て華厳・大日経等の諸経をしらざるか、其の上月氏・尸那・新羅・百済等にも一同に二乗作仏・久遠実成は法華経に限るというか。
 されば八箇年の経は四十余年の経経には相違せりというとも先判・後判の中には後判につくべしというとも猶爾前づりにこそをぼうれ、又、但在世計りならば・さもあるべきに滅後に居せる論師・人師・多は爾前づりにこそ候へ、かう法華経は信じがたき上、世もやうやく末になれば聖賢はやうやく・かくれ迷者はやうやく多し、世間の浅き事すら猶あやまりやすし何に況や出世の深法悞なかるべしや、犢子・方広が聡敏なりし猶を大小乗経にあやまてり、無垢・摩沓が利根なりし権実・二教を弁えず、正法一千年の内、在世も近く月氏の内なりし・すでにかくのごとし、況や尸那・日本等は国もへだて音もかはれり人の根も鈍なり寿命も日あさし貪瞋癡も倍増せり、仏世を去つてとし久し仏経みなあやまれり誰れの智解か直かるべき、仏涅槃経に記して云く「末法には正法の者は爪上の土・謗法の者は十方の土」とみへぬ、法滅尽経に云く「謗法の者は恒河沙・正法の者は一二の小石」と記しをき給う、千年・五百年に一人なんども正法の者ありがたからん、世間の罪に依つて悪道に堕る者は爪上の土・仏


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