御書本文

撰時抄
269ページ

ば我が経をすてよと常に高座にしてとかせ給しなり、上一人より下万民にいたるまで願じて云く願くは羅什三蔵より後に死せんと、終に死し給う後焼きたてまつりしかば不浄の身は皆灰となりぬ御舌計り火中に青蓮華生て其の上にあり五色の光明を放ちて夜は昼のごとく昼は日輪の御光をうばい給いき、さてこそ一切の訳人の経経は軽くなりて羅什三蔵の訳し給える経経・殊に法華経は漢土にやすやすとひろまり給いしか。
 疑つて云く羅什已前はしかるべし已後の善無畏・不空等は如何、答えて云く已後なりとも訳者の舌の焼けるをば悞ありけりとしるべしされば日本国に法相宗のはやりたりしを伝教大師責めさせ給いしには羅什三蔵は舌焼けず玄奘・慈恩は舌焼けぬとせめさせ給いしかば桓武天王は道理とをぼして天台法華宗へはうつらせ給いしなり、涅槃経の第三・第九等をみまいらすれば我が仏法は月支より他国へわたらん時、多くの謬誤出来して衆生の得道うすかるべしととかれて候、されば妙楽大師は「並びに進退は人に在り何ぞ聖旨に関らん」とこそあそばされて候へ、今の人人いかに経のままに後世をねがうともあやまれる経経のままにねがはば得道もあるべからず、しかればとて仏の御とがにはあらじとかかれて候、仏教を習ふ法には大小・権実・顕密はさてをくこれこそ第一の大事にては候らめ。
 疑つて云く正法一千年の論師の内心には法華経の実義の顕密の諸経に超過してあるよしは・しろしめしながら外には宣説せずして但権大乗計りを宣べさせ給うことは・しかるべしとはをぼへねども其の義はすこしきこえ候いぬ、像法一千年の半に天台智者大師・出現して題目の妙法蓮華経の五字を玄義十巻一千枚にかきつくし、文句十巻には始め如是我聞より終り作礼而去にいたるまで一字一句に因縁・約教・本迹・観心の四の釈をならべて又一
千枚に尽し給う已上玄義・文句の二十巻には一切経の心を江河として法華経を大海にたとえ十方界の仏法の露一渧も漏さず妙法蓮華経の大海に入れさせ給いぬ、其の上天竺の大論の諸義・一点ももらさず漢土・南北の十師の義

この御書の最初のページ前のページ
タイトル 聖寿 対告衆 述作地
撰時抄 54   身延

日蓮大聖人御書

検索結果詳細 御書本文

撰時抄 269ページ

ば我が経をすてよと常に高座にしてとかせ給しなり、上一人より下万民にいたるまで願じて云く願くは羅什三蔵より後に死せんと、終に死し給う後焼きたてまつりしかば不浄の身は皆灰となりぬ御舌計り火中に青蓮華生て其の上にあり五色の光明を放ちて夜は昼のごとく昼は日輪の御光をうばい給いき、さてこそ一切の訳人の経経は軽くなりて羅什三蔵の訳し給える経経・殊に法華経は漢土にやすやすとひろまり給いしか。
 疑つて云く羅什已前はしかるべし已後の善無畏・不空等は如何、答えて云く已後なりとも訳者の舌の焼けるをば悞ありけりとしるべしされば日本国に法相宗のはやりたりしを伝教大師責めさせ給いしには羅什三蔵は舌焼けず玄奘・慈恩は舌焼けぬとせめさせ給いしかば桓武天王は道理とをぼして天台法華宗へはうつらせ給いしなり、涅槃経の第三・第九等をみまいらすれば我が仏法は月支より他国へわたらん時、多くの謬誤出来して衆生の得道うすかるべしととかれて候、されば妙楽大師は「並びに進退は人に在り何ぞ聖旨に関らん」とこそあそばされて候へ、今の人人いかに経のままに後世をねがうともあやまれる経経のままにねがはば得道もあるべからず、しかればとて仏の御とがにはあらじとかかれて候、仏教を習ふ法には大小・権実・顕密はさてをくこれこそ第一の大事にては候らめ。
 疑つて云く正法一千年の論師の内心には法華経の実義の顕密の諸経に超過してあるよしは・しろしめしながら外には宣説せずして但権大乗計りを宣べさせ給うことは・しかるべしとはをぼへねども其の義はすこしきこえ候いぬ、像法一千年の半に天台智者大師・出現して題目の妙法蓮華経の五字を玄義十巻一千枚にかきつくし、文句十巻には始め如是我聞より終り作礼而去にいたるまで一字一句に因縁・約教・本迹・観心の四の釈をならべて又一
千枚に尽し給う已上玄義・文句の二十巻には一切経の心を江河として法華経を大海にたとえ十方界の仏法の露一渧も漏さず妙法蓮華経の大海に入れさせ給いぬ、其の上天竺の大論の諸義・一点ももらさず漢土・南北の十師の義


  • 自由語検索
※複数入力の場合、単語をスペースで区切ってください。
検索オプション