御書本文
破すべきをば・これをはし取るべきをば此れを用う、其の上・止観十巻を注して一代の観門を一念にすべ十界の依正を三千につづめたり、此の書の文体は遠くは月支・一千年の間の論師にも超え近くは尸那五百年の人師の釈にも
勝れたり、故に三論宗の吉蔵大師・南北一百余人の先達と長者らをすすめて天台大師の講経を聞けと勧むる状に云く「千年の興五百の実復今日に在り乃至南岳の叡聖天台の明哲昔は三業住持し今は二尊に紹係す豈止甘呂を震旦に灑ぐのみならん亦当に法鼓を天竺に震うべし、生知の妙悟魏晋以来典籍風謡実に連類無し乃至禅衆一百余の僧と共に智者大師を奉請す」等云云、修南山の道宣律師天台大師を讃歎して云く「法華を照了すること高輝の幽谷に臨むが若く摩訶衍を説くこと長風の太虚に遊ぶに似たり仮令文字の師千羣万衆ありて彼の妙弁を数め尋ぬとも能く窮むる者無し、乃至義月を指すに同じ乃至宗一極に帰す」云云、華厳宗の法蔵大師天台を讃して云く「思禅師智者等の如き神異に感通して迹登位に参わる霊山の聴法憶い今に在り」等云云、真言宗の不空三蔵・含光法師等・師弟共に真言宗をすてて天台大師に帰伏する物語に云く高僧伝に云く「不空三蔵と親たり天竺に遊びたるに彼に僧有り問うて曰く大唐に天台の教迹有り最も邪正を簡び偏円を暁むるに堪えたり能く之を訳して将に此土に至らしむ可きや」等云云、此の物語は含光が妙楽大師にかたり給しなり、妙楽大師此の物語を聞いて云く「豈中国に法を失いて之を四維に求むるに非ずや而も此方識ること有る者少し魯人の如きのみ」等云云、身毒国の中に天台三十巻のごとくなる大論あるならば南天の僧いかでか漢土の天台の釈をねがうべき、これあに像法の中に法華経の実義顕れて南閻浮提に広宣流布するにあらずや、答えて云く正法一千年・像法の前四百年・已上仏滅後・一千四百余年にいまだ論師の弘通し給はざる一代超過の円定・円慧を漢土に弘通し給うのみならず其の声月氏までもきこえぬ、法華経の広宣流布にはにたれどもいまだ円頓の戒壇を立てられず小乗の威儀をもつて円の慧定に切りつけるはすこし便なきににたり、例せば日輪の蝕するがごとし月輪のかけたるに似たり、何にいわうや天台
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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撰時抄 | 54 | 身延 |
日蓮大聖人御書
検索結果詳細 御書本文
撰時抄 270ページ
破すべきをば・これをはし取るべきをば此れを用う、其の上・止観十巻を注して一代の観門を一念にすべ十界の依正を三千につづめたり、此の書の文体は遠くは月支・一千年の間の論師にも超え近くは尸那五百年の人師の釈にも
勝れたり、故に三論宗の吉蔵大師・南北一百余人の先達と長者らをすすめて天台大師の講経を聞けと勧むる状に云く「千年の興五百の実復今日に在り乃至南岳の叡聖天台の明哲昔は三業住持し今は二尊に紹係す豈止甘呂を震旦に灑ぐのみならん亦当に法鼓を天竺に震うべし、生知の妙悟魏晋以来典籍風謡実に連類無し乃至禅衆一百余の僧と共に智者大師を奉請す」等云云、修南山の道宣律師天台大師を讃歎して云く「法華を照了すること高輝の幽谷に臨むが若く摩訶衍を説くこと長風の太虚に遊ぶに似たり仮令文字の師千羣万衆ありて彼の妙弁を数め尋ぬとも能く窮むる者無し、乃至義月を指すに同じ乃至宗一極に帰す」云云、華厳宗の法蔵大師天台を讃して云く「思禅師智者等の如き神異に感通して迹登位に参わる霊山の聴法憶い今に在り」等云云、真言宗の不空三蔵・含光法師等・師弟共に真言宗をすてて天台大師に帰伏する物語に云く高僧伝に云く「不空三蔵と親たり天竺に遊びたるに彼に僧有り問うて曰く大唐に天台の教迹有り最も邪正を簡び偏円を暁むるに堪えたり能く之を訳して将に此土に至らしむ可きや」等云云、此の物語は含光が妙楽大師にかたり給しなり、妙楽大師此の物語を聞いて云く「豈中国に法を失いて之を四維に求むるに非ずや而も此方識ること有る者少し魯人の如きのみ」等云云、身毒国の中に天台三十巻のごとくなる大論あるならば南天の僧いかでか漢土の天台の釈をねがうべき、これあに像法の中に法華経の実義顕れて南閻浮提に広宣流布するにあらずや、答えて云く正法一千年・像法の前四百年・已上仏滅後・一千四百余年にいまだ論師の弘通し給はざる一代超過の円定・円慧を漢土に弘通し給うのみならず其の声月氏までもきこえぬ、法華経の広宣流布にはにたれどもいまだ円頓の戒壇を立てられず小乗の威儀をもつて円の慧定に切りつけるはすこし便なきににたり、例せば日輪の蝕するがごとし月輪のかけたるに似たり、何にいわうや天台
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