御書本文

顕謗法抄
450ページ

は古の謗法者の料簡に似たり、但し且く汝等が料簡に随て尋ね明らめん、問う法華已前に二乗作仏を嫌いけるを今未顕真実というとならば先ず決定性の二乗を仏の永不成仏と説かせ給し処処の経文ばかりは未顕真実の仏の妄語なりと承伏せさせ給うか、さては仏の妄語は勿論なり若し爾らば妄語の人の申すことは有無共に用いぬ事にてあるぞかし、決定性の二乗・永不成仏の語ばかり妄語となり若し余の菩薩・凡夫の往生成仏等は実語となるべきならば信用しがたき事なり、譬へば東方を西方と妄語し申さん人は西方を東方と申すべし二乗を永不成仏と説く仏は余の菩薩の成仏をゆるすも又妄語にあらずや、五乗は但一仏性なり二乗の仏性をかくし菩薩・凡夫の仏性をあらはすは返つて菩薩・凡夫の仏性をかくすなり。
 有人云く四十余年未顕真実とは成仏の道ばかり未顕真実なり往生等は未顕真実にはあらず、又難じて云く四十余年が間の説の成仏を未顕真実と承伏せさせ給はば雙観経に云う不取正覚成仏已来凡歴十劫等の文は未顕真実と承伏せさせ給うか、若し爾らば四十余年の経経にして法蔵比丘の阿弥陀仏になり給はずば法蔵比丘の成仏すでに妄語なり、若し成仏妄語ならば何の仏か行者を迎え給うべきや、又かれ此の難を通して云ん四十余年が間は成仏はなし阿弥陀仏は今の成仏にはあらず過去の成仏なり等と云云、今難じて云く今日の四十余年の経経にして実の凡夫の成仏を許されずば過去遠遠劫の四十余年の権経にても成仏叶いがたきか、三世の諸仏の説法の儀式皆同きが故なり、或は云く不得疾成・無上菩提ととかるれば四十余年の経経にては疾くこそ仏にはならねども遅く劫を経てはなるか、難じて云く次下の大荘厳菩薩等の領解に云く「不可思議無量無辺阿僧祇劫を過るとも終に無上菩提を成ずることを得ず」等と云云、此の文の如くならば劫を経ても爾前の経計りにては成仏はかたきか。
 有は云う華厳宗の料簡に云く四十余年の内には華厳経計りは入るべからず、華厳経にすでに往生成仏此ありなんぞ華厳経を行じて往生成仏をとげざらん、答えて云く四十余年の内に華厳経入るべからずとは華厳宗の人師の

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
顕謗法抄 41   伊東

日蓮大聖人御書

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顕謗法抄 450ページ

は古の謗法者の料簡に似たり、但し且く汝等が料簡に随て尋ね明らめん、問う法華已前に二乗作仏を嫌いけるを今未顕真実というとならば先ず決定性の二乗を仏の永不成仏と説かせ給し処処の経文ばかりは未顕真実の仏の妄語なりと承伏せさせ給うか、さては仏の妄語は勿論なり若し爾らば妄語の人の申すことは有無共に用いぬ事にてあるぞかし、決定性の二乗・永不成仏の語ばかり妄語となり若し余の菩薩・凡夫の往生成仏等は実語となるべきならば信用しがたき事なり、譬へば東方を西方と妄語し申さん人は西方を東方と申すべし二乗を永不成仏と説く仏は余の菩薩の成仏をゆるすも又妄語にあらずや、五乗は但一仏性なり二乗の仏性をかくし菩薩・凡夫の仏性をあらはすは返つて菩薩・凡夫の仏性をかくすなり。
 有人云く四十余年未顕真実とは成仏の道ばかり未顕真実なり往生等は未顕真実にはあらず、又難じて云く四十余年が間の説の成仏を未顕真実と承伏せさせ給はば雙観経に云う不取正覚成仏已来凡歴十劫等の文は未顕真実と承伏せさせ給うか、若し爾らば四十余年の経経にして法蔵比丘の阿弥陀仏になり給はずば法蔵比丘の成仏すでに妄語なり、若し成仏妄語ならば何の仏か行者を迎え給うべきや、又かれ此の難を通して云ん四十余年が間は成仏はなし阿弥陀仏は今の成仏にはあらず過去の成仏なり等と云云、今難じて云く今日の四十余年の経経にして実の凡夫の成仏を許されずば過去遠遠劫の四十余年の権経にても成仏叶いがたきか、三世の諸仏の説法の儀式皆同きが故なり、或は云く不得疾成・無上菩提ととかるれば四十余年の経経にては疾くこそ仏にはならねども遅く劫を経てはなるか、難じて云く次下の大荘厳菩薩等の領解に云く「不可思議無量無辺阿僧祇劫を過るとも終に無上菩提を成ずることを得ず」等と云云、此の文の如くならば劫を経ても爾前の経計りにては成仏はかたきか。
 有は云う華厳宗の料簡に云く四十余年の内には華厳経計りは入るべからず、華厳経にすでに往生成仏此ありなんぞ華厳経を行じて往生成仏をとげざらん、答えて云く四十余年の内に華厳経入るべからずとは華厳宗の人師の


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