御書本文

聖愚問答抄下
488ページ

離れて之を伝うといわば教を離れて理なく理を離れて教無し理全く教教全く理と云う道理汝之を知らざるや拈華微笑して迦葉に付属し給うと云うも是れ教なり不立文字と云う四字も即教なり文字なり此の事・和漢両国に事旧りぬ今いへば事新きに似たれども一両の文を勘えて汝が迷を払はしめん、補註十一に云く又復若し言説に滞ると謂わば且らく娑婆世界には何を将つて仏事と為るや、禅徒豈言説をもつて人に示さざらんや、文字を離れて解脱の義を談ずること無し豈に聞かざらんや乃至次ぎ下に云く豈に達磨西来して直指人心・見性成仏すと而るに華厳等の諸大乗経に此の事無からんや、嗚呼世人何ぞ其れ愚かなるや汝等当に仏の所説を信ずべし諸仏如来は言虚妄無し、此の文の意は若し教文にとどこほり言説にかかはるとて教の外に修行すといはば此の娑婆国にはさて如何がして仏事善根を作すべき、さように云うところの禅人も人に教ゆる時は言を以て云はざるべしや其の上仏道の解了を云う時文字を離れて義なし、又達磨西より来つて直に人心を指して仏なりと云う是程の理は華厳・大集・大般若等の法華已前の権大乗経にも在在処処に之を談ぜり是をいみじき事とせんは無下に云いがひなき事なり嗚呼今世の人何ぞ甚ひがめるや只中道実相の理に契当せる妙覚果満の如来誠諦の言を信ずべきなり又妙楽大師の弘決の一に此の理を釈して云く「世人教を蔑にして理観を尚ぶは誤れるかな誤れるかな」と、此の文の意は今の世の人人は観心観法を先として経教を尋ね学ばず還つて教をあなづり経をかろしむる是れ誤れりと云う文なり、其の上当世の禅人・自宗に迷へり、続高僧伝を披見するに習禅の初祖達磨大師の伝に云く教に藉つて宗を悟ると、如来一代の聖教の道理を習学し法門の旨・宗宗の沙汰を知るべきなり、又達磨の弟子・六祖の第二祖慧可の伝に云く達磨禅師四巻の楞伽を以て可に授けて云く「我漢の地を観るに唯此の経のみ有り仁者依行せば自ら世を度する事を得ん」と、此の文の意は達磨大師・天竺より唐土に来つて四巻の楞伽経をもつて慧可に授けて云く我此の国を見るに是の経殊に勝れたり汝持ち修行して仏に成れとなり、此等の祖師既に経文を前とす若し之に依つて経に

この御書の最初のページ前のページ
タイトル 聖寿 対告衆 述作地
聖愚問答抄下 44   鎌倉

日蓮大聖人御書

検索結果詳細 御書本文

聖愚問答抄下 488ページ

離れて之を伝うといわば教を離れて理なく理を離れて教無し理全く教教全く理と云う道理汝之を知らざるや拈華微笑して迦葉に付属し給うと云うも是れ教なり不立文字と云う四字も即教なり文字なり此の事・和漢両国に事旧りぬ今いへば事新きに似たれども一両の文を勘えて汝が迷を払はしめん、補註十一に云く又復若し言説に滞ると謂わば且らく娑婆世界には何を将つて仏事と為るや、禅徒豈言説をもつて人に示さざらんや、文字を離れて解脱の義を談ずること無し豈に聞かざらんや乃至次ぎ下に云く豈に達磨西来して直指人心・見性成仏すと而るに華厳等の諸大乗経に此の事無からんや、嗚呼世人何ぞ其れ愚かなるや汝等当に仏の所説を信ずべし諸仏如来は言虚妄無し、此の文の意は若し教文にとどこほり言説にかかはるとて教の外に修行すといはば此の娑婆国にはさて如何がして仏事善根を作すべき、さように云うところの禅人も人に教ゆる時は言を以て云はざるべしや其の上仏道の解了を云う時文字を離れて義なし、又達磨西より来つて直に人心を指して仏なりと云う是程の理は華厳・大集・大般若等の法華已前の権大乗経にも在在処処に之を談ぜり是をいみじき事とせんは無下に云いがひなき事なり嗚呼今世の人何ぞ甚ひがめるや只中道実相の理に契当せる妙覚果満の如来誠諦の言を信ずべきなり又妙楽大師の弘決の一に此の理を釈して云く「世人教を蔑にして理観を尚ぶは誤れるかな誤れるかな」と、此の文の意は今の世の人人は観心観法を先として経教を尋ね学ばず還つて教をあなづり経をかろしむる是れ誤れりと云う文なり、其の上当世の禅人・自宗に迷へり、続高僧伝を披見するに習禅の初祖達磨大師の伝に云く教に藉つて宗を悟ると、如来一代の聖教の道理を習学し法門の旨・宗宗の沙汰を知るべきなり、又達磨の弟子・六祖の第二祖慧可の伝に云く達磨禅師四巻の楞伽を以て可に授けて云く「我漢の地を観るに唯此の経のみ有り仁者依行せば自ら世を度する事を得ん」と、此の文の意は達磨大師・天竺より唐土に来つて四巻の楞伽経をもつて慧可に授けて云く我此の国を見るに是の経殊に勝れたり汝持ち修行して仏に成れとなり、此等の祖師既に経文を前とす若し之に依つて経に


  • 自由語検索
※複数入力の場合、単語をスペースで区切ってください。
検索オプション