御書本文
らずといわば速かに捨つ可きなりと、其の故は天台大師兼ねて約束して云く「修多羅と合せば録して之を用いよ文無く義無きは信受す可からず」云云、伝教大師の云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」文、竜樹の大論に云く「修多羅に依るは白論なり修多羅に依らざるは黒論なり」文、教主釈尊云く「依法不依人」文、天台は法華経に依り竜樹を高祖にしながら経文に違し我が言を飜じて外道邪見の法に依つて止観一部を釈する事全く有る可からざるなり、問う正しく止観は法華経に依ると見えたる文之有りや、答う余りに多きが故に少少之を出さん止観に云く「漸と不定とは置いて論ぜず今経に依つて更に円頓を明かさん」文、弘決に云く「法華経の旨を攢て不思議・十乗・十境・待絶滅絶・寂照の行を成ず」文、止観大意に云く「今家の教門は竜樹を以て始祖と為す慧文は但内観を列ねて視聴するのみ南岳天台に及んで復法華三昧に因つて陀羅尼を発し義門を開拓して観法周備す、○若し法華を釈するには弥弥須く権実本迹を暁了すべし方に行を立つ可し此の経独り妙と称することを得・方に此に依つて以て観意を立つ可し、五方便及び十乗軌行と言うは即ち円頓止観全く法華に依る円頓止観は即ち法華三昧の異名なるのみ」文、文句の記に云く「観と経と合すれば他の宝を数うるに非ず方に知んぬ止観一部は是れ法華三昧の筌罤なり若し斯の意を得れば方に経旨に会う」云云、唐土の人師行満の釈せる学天台宗法門大意に云く「摩訶止観一部の大意は法華三昧の異名を出でず経に依つて観を修す」文、此等の文証分明なり、誰か之を論ぜん、問う天台四種の釈を作るの時・観心の釈に至つて本迹の釈を捨つと見えたり、又法華経は漸機の為に之を説き・止観は直達の機の為に之を説くと如何、答う漸機の為に説けば劣り頓機の為に説けば勝るとならば今の天台宗の意は華厳・真言等の経は法華経に勝れたりと云う可きや、今の天台宗の浅猨さは真言は事理倶密の教なる故に法華経に勝れたりと謂えり、故に止観は法華に勝ると云えるも道理なり道理なり。
次に観心の釈の時本迹を捨つと云う難は法華経何れの文・人師の釈を本と為して仏教を捨てよと見えたるや設
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
---|---|---|---|
立正観抄 | 53 | 身延 |
日蓮大聖人御書
検索結果詳細 御書本文
立正観抄 528ページ
らずといわば速かに捨つ可きなりと、其の故は天台大師兼ねて約束して云く「修多羅と合せば録して之を用いよ文無く義無きは信受す可からず」云云、伝教大師の云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」文、竜樹の大論に云く「修多羅に依るは白論なり修多羅に依らざるは黒論なり」文、教主釈尊云く「依法不依人」文、天台は法華経に依り竜樹を高祖にしながら経文に違し我が言を飜じて外道邪見の法に依つて止観一部を釈する事全く有る可からざるなり、問う正しく止観は法華経に依ると見えたる文之有りや、答う余りに多きが故に少少之を出さん止観に云く「漸と不定とは置いて論ぜず今経に依つて更に円頓を明かさん」文、弘決に云く「法華経の旨を攢て不思議・十乗・十境・待絶滅絶・寂照の行を成ず」文、止観大意に云く「今家の教門は竜樹を以て始祖と為す慧文は但内観を列ねて視聴するのみ南岳天台に及んで復法華三昧に因つて陀羅尼を発し義門を開拓して観法周備す、○若し法華を釈するには弥弥須く権実本迹を暁了すべし方に行を立つ可し此の経独り妙と称することを得・方に此に依つて以て観意を立つ可し、五方便及び十乗軌行と言うは即ち円頓止観全く法華に依る円頓止観は即ち法華三昧の異名なるのみ」文、文句の記に云く「観と経と合すれば他の宝を数うるに非ず方に知んぬ止観一部は是れ法華三昧の筌罤なり若し斯の意を得れば方に経旨に会う」云云、唐土の人師行満の釈せる学天台宗法門大意に云く「摩訶止観一部の大意は法華三昧の異名を出でず経に依つて観を修す」文、此等の文証分明なり、誰か之を論ぜん、問う天台四種の釈を作るの時・観心の釈に至つて本迹の釈を捨つと見えたり、又法華経は漸機の為に之を説き・止観は直達の機の為に之を説くと如何、答う漸機の為に説けば劣り頓機の為に説けば勝るとならば今の天台宗の意は華厳・真言等の経は法華経に勝れたりと云う可きや、今の天台宗の浅猨さは真言は事理倶密の教なる故に法華経に勝れたりと謂えり、故に止観は法華に勝ると云えるも道理なり道理なり。
次に観心の釈の時本迹を捨つと云う難は法華経何れの文・人師の釈を本と為して仏教を捨てよと見えたるや設
- 自由語検索