御書本文
立正観抄
立 正 観 抄 文永十一年 五十三歳御作
法華止観同異決 日 蓮 撰
当世天台の教法を習学するの輩多く観心修行を貴んで法華本迹二門を捨つと見えたり、今問う抑観心修行と言うは天台大師の摩訶止観の説己心中所行法門の一心三観・一念三千の観に依るか、将又・世流布の達磨の禅観に依るか、若し達磨の禅観に依るといわば教禅は未顕真実妄語方便の禅観なり法華経妙禅の時には正直捨方便と捨てらるる禅なり、祖師達磨禅は教外別伝の天魔禅なり、共に是れ無得道妄語の禅なり仍て之を用ゆ可からず、若し天台の止観一心三観に依るとならば止観一部の廃立・天台の本意に背く可からざるなり、若し止観修行の観心に依るとならば法華経に背く可からず止観一部は法華経に依つて建立す一心三観の修行は妙法の不可得なるを感得せんが為なり、故に知んぬ法華経を捨てて但だ観を正とするの輩は大謗法・大邪見・天魔の所為なることを、其の故は天台の一心三観とは法華経に依つて三昧開発するを己心証得の止観とは云う故なり。
問う天台大師・止観一部並びに一念三千・一心三観・己心証得の妙観は併しながら法華経に依ると云う証拠如何、答う予反詰して云く法華経に依らずと見えたる証文如何、人之を出して云く「此の止観は天台智者・己心中所行の法門を説く或は又故に止観に至つて正く観法を明かす並に三千を以て指南と為す乃ち是れ終窮究竟の極説なり故に序の中に説己心中所行法門と云えり良に以有るなり」文、難じて云く此の文は全く法華経に依らずと云う文に非ず既に説己心中所行の法門と云うが故なり天台の所行の法門は法華経なるが故に此の意は法華経に依ると見えたる証文なり但し他宗に対するの時は問答大綱を存す可きなり、所謂云う可し若し天台の止観・法華経に依
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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立正観抄 | 53 | 身延 |
日蓮大聖人御書
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立正観抄 527ページ
立正観抄
立 正 観 抄 文永十一年 五十三歳御作
法華止観同異決 日 蓮 撰
当世天台の教法を習学するの輩多く観心修行を貴んで法華本迹二門を捨つと見えたり、今問う抑観心修行と言うは天台大師の摩訶止観の説己心中所行法門の一心三観・一念三千の観に依るか、将又・世流布の達磨の禅観に依るか、若し達磨の禅観に依るといわば教禅は未顕真実妄語方便の禅観なり法華経妙禅の時には正直捨方便と捨てらるる禅なり、祖師達磨禅は教外別伝の天魔禅なり、共に是れ無得道妄語の禅なり仍て之を用ゆ可からず、若し天台の止観一心三観に依るとならば止観一部の廃立・天台の本意に背く可からざるなり、若し止観修行の観心に依るとならば法華経に背く可からず止観一部は法華経に依つて建立す一心三観の修行は妙法の不可得なるを感得せんが為なり、故に知んぬ法華経を捨てて但だ観を正とするの輩は大謗法・大邪見・天魔の所為なることを、其の故は天台の一心三観とは法華経に依つて三昧開発するを己心証得の止観とは云う故なり。
問う天台大師・止観一部並びに一念三千・一心三観・己心証得の妙観は併しながら法華経に依ると云う証拠如何、答う予反詰して云く法華経に依らずと見えたる証文如何、人之を出して云く「此の止観は天台智者・己心中所行の法門を説く或は又故に止観に至つて正く観法を明かす並に三千を以て指南と為す乃ち是れ終窮究竟の極説なり故に序の中に説己心中所行法門と云えり良に以有るなり」文、難じて云く此の文は全く法華経に依らずと云う文に非ず既に説己心中所行の法門と云うが故なり天台の所行の法門は法華経なるが故に此の意は法華経に依ると見えたる証文なり但し他宗に対するの時は問答大綱を存す可きなり、所謂云う可し若し天台の止観・法華経に依
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