御書本文

御義口伝巻上
720ページ

り、五千の上慢は元品の無明なり故に礼仏而退なり此れは九識八識六識と下る分なり流転門の談道なり、仏威徳故去とは還滅門なり然らば威徳とは南無妙法蓮華経なり本迷本悟の全体なり能く能く之を案ず可し云云。
第六如我等無異如我昔所願の事 疏に云く因を挙げて信を勧むと。
御義口伝に云く我とは釈尊・我実成仏久遠の仏なり此の本門の釈尊は我等衆生の事なり、如我の我は十如是の末の七如是なり九界の衆生は始の三如是なり我等衆生は親なり仏は子なり父子一体にして本末究竟等なり、此の我等を寿量品に無作の三身と説きたるなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱うる者是なり、爰を以て之を思うに釈尊の惣別の二願とは我等衆生の為に立てたもう処の願なり、此の故に南無妙法蓮華経と唱え奉りて日本国の一切衆生を我が成仏せしめんと云う所の願併ら如我昔所願なり、終に引導して己身と和合するを今者已満足と意得可きなり、此の今者已満足の已の字すでにと読むなり何の処を指して已にとは説けるや、凡そ所釈の心は諸法実相の文を指して已にとは云えり、爾りと雖も当家の立義としては南無妙法蓮華経を指して今者已満足と説かれたりと意得可きなり、されば此の如我等無異の文肝要なり、如我昔所願は本因妙如我等無異は本果妙なり妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや、釈には挙因勧信と挙因は即ち本果なり、今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり豈今者已満足に非ずや、已とは建長五年四月廿八日に初めて唱え出す処の題目を指して已と意得可きなり、妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり此れを思い遣る時んば満足なり満足とは成仏と云う事なり、釈に云く「円は円融円満に名け頓は頓極頓足に名く」と之を思う可し云云。
第七於諸菩薩中正直捨方便の事 文句の四に云く於諸菩薩中より下の三句は正しく実を顕すなり、五乗は是れ曲にして直に非ず通別は偏傍にして正に非ず今皆彼の偏曲を捨てて但正直の一道を説くなりと。

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
御義口伝巻上     身延

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御義口伝巻上 720ページ

り、五千の上慢は元品の無明なり故に礼仏而退なり此れは九識八識六識と下る分なり流転門の談道なり、仏威徳故去とは還滅門なり然らば威徳とは南無妙法蓮華経なり本迷本悟の全体なり能く能く之を案ず可し云云。
第六如我等無異如我昔所願の事 疏に云く因を挙げて信を勧むと。
御義口伝に云く我とは釈尊・我実成仏久遠の仏なり此の本門の釈尊は我等衆生の事なり、如我の我は十如是の末の七如是なり九界の衆生は始の三如是なり我等衆生は親なり仏は子なり父子一体にして本末究竟等なり、此の我等を寿量品に無作の三身と説きたるなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱うる者是なり、爰を以て之を思うに釈尊の惣別の二願とは我等衆生の為に立てたもう処の願なり、此の故に南無妙法蓮華経と唱え奉りて日本国の一切衆生を我が成仏せしめんと云う所の願併ら如我昔所願なり、終に引導して己身と和合するを今者已満足と意得可きなり、此の今者已満足の已の字すでにと読むなり何の処を指して已にとは説けるや、凡そ所釈の心は諸法実相の文を指して已にとは云えり、爾りと雖も当家の立義としては南無妙法蓮華経を指して今者已満足と説かれたりと意得可きなり、されば此の如我等無異の文肝要なり、如我昔所願は本因妙如我等無異は本果妙なり妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや、釈には挙因勧信と挙因は即ち本果なり、今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり豈今者已満足に非ずや、已とは建長五年四月廿八日に初めて唱え出す処の題目を指して已と意得可きなり、妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり此れを思い遣る時んば満足なり満足とは成仏と云う事なり、釈に云く「円は円融円満に名け頓は頓極頓足に名く」と之を思う可し云云。
第七於諸菩薩中正直捨方便の事 文句の四に云く於諸菩薩中より下の三句は正しく実を顕すなり、五乗は是れ曲にして直に非ず通別は偏傍にして正に非ず今皆彼の偏曲を捨てて但正直の一道を説くなりと。


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