御書本文
うて云く云何か智者・念念の滅を観ずと、仏の言く譬えば四人皆射術を善し聚つて一処に在りて・各一方を射るに念言すらく・我等は四の箭・倶に射て倶に堕せんと、復人有りて念ずらく・其の未だ堕せざるに及んで我れ能く一時に手を以て接取せんというが如し、仏の言く、捷疾鬼は復是の人よりも速なり是くの如く、飛行鬼・四天王・日月神・堅疾天は展転して箭よりも疾し、無常は此れに過ぎたりと、此の本末の意は他師・此の経の如是に付て釈を設くと云えども・更に法蓮華の理に深く叶わざるなり、一二だも義理を尽さざるなり況や因縁をや、何に況や約教・観心の四をやと破し給えり、所詮法華経は速疾頓成を以て本とす、我等衆生の無常のはやき事は捷疾鬼よりもはやし、爰を以て出ずる息は入る息を待たず、此の経の如是は爾前の諸経の如是に勝れて超八の如是なり、超八醍醐の如是とは速疾頓成の故なり、妙楽大師云く若し超八の如是に非ずんば、安ぞ此の経の所聞と為さんと云云。
一耆闍崛山の事 仰に云く耆闍崛山とは霊鷲山なり、霊とは三世の諸仏の心法なり必ず此の山に仏法を留め給う、鷲とは鳥なり此の山の南に当つて尸陀林あり死人を捨つる所なり、鷲此の屍を取り食うて、此の山に住むなり、さて霊鷲山とは云うなり、所詮今の経の心は迷悟一体と談ず、霊と云うは法華経なり、三世の諸仏の心法にして悟なり、鷲と云うは畜生にして迷なり、迷悟不二と開く中道即法性の山なり、耆闍崛山中と云うは迷悟不二・三諦一諦・中道第一義空の内証なり、されば法華経を行ずる日蓮等が弟子檀那の住所はいかなる山野なりとも霊鷲山なり行者豈釈迦如来に非ずや、日本国は耆闍崛山・日蓮等の類は釈迦如来なるべし、惣じて一乗南無妙法蓮華経を修行せん所は・いかなる所なりとも常寂光の都・霊鷲山なるべし、此の耆闍崛山中とは煩悩の山なり、仏菩薩等は菩提の果なり・煩悩の山の中にして法華経を三世の諸仏説き給えり、諸仏は法性の依地・衆生は無明の依地なり、此の山を寿量品にしては本有の霊山と説かれたり、本有の霊山とは此の娑婆世界なり、中にも日本国な
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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御講聞書 | 身延 |
日蓮大聖人御書
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御講聞書 811ページ
うて云く云何か智者・念念の滅を観ずと、仏の言く譬えば四人皆射術を善し聚つて一処に在りて・各一方を射るに念言すらく・我等は四の箭・倶に射て倶に堕せんと、復人有りて念ずらく・其の未だ堕せざるに及んで我れ能く一時に手を以て接取せんというが如し、仏の言く、捷疾鬼は復是の人よりも速なり是くの如く、飛行鬼・四天王・日月神・堅疾天は展転して箭よりも疾し、無常は此れに過ぎたりと、此の本末の意は他師・此の経の如是に付て釈を設くと云えども・更に法蓮華の理に深く叶わざるなり、一二だも義理を尽さざるなり況や因縁をや、何に況や約教・観心の四をやと破し給えり、所詮法華経は速疾頓成を以て本とす、我等衆生の無常のはやき事は捷疾鬼よりもはやし、爰を以て出ずる息は入る息を待たず、此の経の如是は爾前の諸経の如是に勝れて超八の如是なり、超八醍醐の如是とは速疾頓成の故なり、妙楽大師云く若し超八の如是に非ずんば、安ぞ此の経の所聞と為さんと云云。
一耆闍崛山の事 仰に云く耆闍崛山とは霊鷲山なり、霊とは三世の諸仏の心法なり必ず此の山に仏法を留め給う、鷲とは鳥なり此の山の南に当つて尸陀林あり死人を捨つる所なり、鷲此の屍を取り食うて、此の山に住むなり、さて霊鷲山とは云うなり、所詮今の経の心は迷悟一体と談ず、霊と云うは法華経なり、三世の諸仏の心法にして悟なり、鷲と云うは畜生にして迷なり、迷悟不二と開く中道即法性の山なり、耆闍崛山中と云うは迷悟不二・三諦一諦・中道第一義空の内証なり、されば法華経を行ずる日蓮等が弟子檀那の住所はいかなる山野なりとも霊鷲山なり行者豈釈迦如来に非ずや、日本国は耆闍崛山・日蓮等の類は釈迦如来なるべし、惣じて一乗南無妙法蓮華経を修行せん所は・いかなる所なりとも常寂光の都・霊鷲山なるべし、此の耆闍崛山中とは煩悩の山なり、仏菩薩等は菩提の果なり・煩悩の山の中にして法華経を三世の諸仏説き給えり、諸仏は法性の依地・衆生は無明の依地なり、此の山を寿量品にしては本有の霊山と説かれたり、本有の霊山とは此の娑婆世界なり、中にも日本国な
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