御書本文
無きなり、疑の字は元品の無明の事なり此の疑を断つを信とは云うなり、釈に云く無疑曰信と云えり身子は此の疑無き故に華光仏と成れり、今日蓮等の類は題目の法音を信受する故に疑網更に無し、如我等無異とて釈迦同等の仏にやすやすとならん事疑無きなり、疑網と云うは色心の二法に有る惑障なり、疑は心法にあり・網は色法にあり、此の経を持ち奉り信ずれば色心の二法共に悉く除くと云う事なり、此の皆已の已の字は身子尊者・広開三顕一を指して已とは云うなり、今は領解の文段なり、身子・妙法実相の理を聴聞して心懐大歓喜せしなり、所詮舎利弗尊者程の智者・法華経へ来つて華光仏となり、疑網を断除せり、何に況んや末法当時の権人謗法の人人此の経に値わずんば成仏あらんや云云。
一以本願故説三乗法の事 仰に云く此の経文は身子尊者・成道の国・離垢世界にて三乗の法は悪世には非ず、然りと雖も身子本願の故に説くと云えり、其の本願と云うは身子菩薩の行を立てしに乞眼の婆羅門に眼を抉じられて、其の時・菩薩の行を退転したり、此の菩薩の行を百劫立てけるに、六十劫なして今四十劫たらざりき、此の時・乞眼に眼を抉じられて其の時・菩薩の行を退して願成仏日・開三乗法の願を立てたるなり、上品浄土・不須開漸なれば三乗の法を説く事は更に以てあるまじけれども以本願故の故にて三乗の法を説くなり、此の行は禅多羅仏の所にして立つるなり、此の事は身子が六住退とて大なる沙汰なり、重重の義勢之れ在り輙く心得難きの事なり、或は欲怖地前の意、或は権者退云云、所詮は六住退とは六根・六境に菩薩の行を取られたりと云う事なり、之を以て之を思うに末法当今・法華経を修行せんには、必ず身子が退転の如くなるべし、所詮身子が眼を取らるるは菩薩の智慧の行を取らるるなり、今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経の眼を持ち奉るに謗法の諸人に障礙せらるる・豈眼を抉り取らるるに非ずや、所詮彼の乞眼の婆羅門・眼を乞いしは身子が菩薩の行を退転せしめんが為に乞いて蹈みつぶして捨てたり、全く菩薩の供養の方を本として眼をば乞わざりしなり、只だ退転せしめん為な
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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御講聞書 | 身延 |
日蓮大聖人御書
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御講聞書 817ページ
無きなり、疑の字は元品の無明の事なり此の疑を断つを信とは云うなり、釈に云く無疑曰信と云えり身子は此の疑無き故に華光仏と成れり、今日蓮等の類は題目の法音を信受する故に疑網更に無し、如我等無異とて釈迦同等の仏にやすやすとならん事疑無きなり、疑網と云うは色心の二法に有る惑障なり、疑は心法にあり・網は色法にあり、此の経を持ち奉り信ずれば色心の二法共に悉く除くと云う事なり、此の皆已の已の字は身子尊者・広開三顕一を指して已とは云うなり、今は領解の文段なり、身子・妙法実相の理を聴聞して心懐大歓喜せしなり、所詮舎利弗尊者程の智者・法華経へ来つて華光仏となり、疑網を断除せり、何に況んや末法当時の権人謗法の人人此の経に値わずんば成仏あらんや云云。
一以本願故説三乗法の事 仰に云く此の経文は身子尊者・成道の国・離垢世界にて三乗の法は悪世には非ず、然りと雖も身子本願の故に説くと云えり、其の本願と云うは身子菩薩の行を立てしに乞眼の婆羅門に眼を抉じられて、其の時・菩薩の行を退転したり、此の菩薩の行を百劫立てけるに、六十劫なして今四十劫たらざりき、此の時・乞眼に眼を抉じられて其の時・菩薩の行を退して願成仏日・開三乗法の願を立てたるなり、上品浄土・不須開漸なれば三乗の法を説く事は更に以てあるまじけれども以本願故の故にて三乗の法を説くなり、此の行は禅多羅仏の所にして立つるなり、此の事は身子が六住退とて大なる沙汰なり、重重の義勢之れ在り輙く心得難きの事なり、或は欲怖地前の意、或は権者退云云、所詮は六住退とは六根・六境に菩薩の行を取られたりと云う事なり、之を以て之を思うに末法当今・法華経を修行せんには、必ず身子が退転の如くなるべし、所詮身子が眼を取らるるは菩薩の智慧の行を取らるるなり、今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経の眼を持ち奉るに謗法の諸人に障礙せらるる・豈眼を抉り取らるるに非ずや、所詮彼の乞眼の婆羅門・眼を乞いしは身子が菩薩の行を退転せしめんが為に乞いて蹈みつぶして捨てたり、全く菩薩の供養の方を本として眼をば乞わざりしなり、只だ退転せしめん為な
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