御書本文

御講聞書
816ページ

心は十界皆成の旨を明せり、然れば自証と云うは十界を諸法実相の一仏ぞと説かれたり、地獄も餓鬼も悉く無上大乗の妙法を証得したるなり、自は十界を指したり、恣ままに証すと云う事なり、権教は不平等の経なり、法華経は平等の経なり、今日蓮等の類いは真実自証無上道・大乗平等法の行者なり、所謂南無妙法蓮華経の大乗平等法の広宣流布の時なり云云。
一我始坐道場観樹亦経行の事 仰に云く、此の文は教主釈尊・三十成道の時を説き給えり、観樹の樹と云うは十二因縁の事なり、所詮十二因縁を観じて経行すと説き給えり、十二因縁は法界の異名なり又法華経の異名なり、其の故は樹木は枝葉華菓あり是れ即ち生住異滅の四相なり、大覚世尊・十二因縁の流転を観じ・経行し給えり、所詮末法当今も一切衆生・法華経を謗じて流転す可きを観じて日本国を日蓮経行して南無妙法蓮華経と弘通する事・又又此の如くなり、法華の行者は悉く道場に坐したる人なり云云。
一今我喜無畏の事 仰に云く此の文は権教を説き畢らせ給いて法華経を説かせ給う時なれば喜びておそれなしと観じ給えり、其の故は爾前の間は一切衆生を畏れ給えり、若し法華経を説かずして空しくやあらんずらんと思召して畏れ深くありと云う文なり、さて今は恐るべき事なく時節・来つて説く間・畏れなしと喜び給えり、今日蓮等の類も是くの如く日蓮も三十二までは畏れありき、若しや此の南無妙法蓮華経を弘めずして・あらんずらんと畏れありき、今は即ち此の恐れ無く既に末法当時・南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間恐れなし、終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし云云。
一我聞是法音疑網皆已除の事 仰に云く法音とは南無妙法蓮華経なり、疑網とは最後品の無明を云うなり、此の経を持ち奉れば悉く除くと説かれたり、此の文は舎利弗が三重の無明・一時倶尽する事を領解せり、今日本国の一切衆生・法華経の法音を聞くと云えども未だ能く信ぜず豈疑網皆已に除かんや、除かざれば入阿鼻獄は疑

この御書の最初のページ前のページ
タイトル 聖寿 対告衆 述作地
御講聞書     身延

日蓮大聖人御書

検索結果詳細 御書本文

御講聞書 816ページ

心は十界皆成の旨を明せり、然れば自証と云うは十界を諸法実相の一仏ぞと説かれたり、地獄も餓鬼も悉く無上大乗の妙法を証得したるなり、自は十界を指したり、恣ままに証すと云う事なり、権教は不平等の経なり、法華経は平等の経なり、今日蓮等の類いは真実自証無上道・大乗平等法の行者なり、所謂南無妙法蓮華経の大乗平等法の広宣流布の時なり云云。
一我始坐道場観樹亦経行の事 仰に云く、此の文は教主釈尊・三十成道の時を説き給えり、観樹の樹と云うは十二因縁の事なり、所詮十二因縁を観じて経行すと説き給えり、十二因縁は法界の異名なり又法華経の異名なり、其の故は樹木は枝葉華菓あり是れ即ち生住異滅の四相なり、大覚世尊・十二因縁の流転を観じ・経行し給えり、所詮末法当今も一切衆生・法華経を謗じて流転す可きを観じて日本国を日蓮経行して南無妙法蓮華経と弘通する事・又又此の如くなり、法華の行者は悉く道場に坐したる人なり云云。
一今我喜無畏の事 仰に云く此の文は権教を説き畢らせ給いて法華経を説かせ給う時なれば喜びておそれなしと観じ給えり、其の故は爾前の間は一切衆生を畏れ給えり、若し法華経を説かずして空しくやあらんずらんと思召して畏れ深くありと云う文なり、さて今は恐るべき事なく時節・来つて説く間・畏れなしと喜び給えり、今日蓮等の類も是くの如く日蓮も三十二までは畏れありき、若しや此の南無妙法蓮華経を弘めずして・あらんずらんと畏れありき、今は即ち此の恐れ無く既に末法当時・南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間恐れなし、終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし云云。
一我聞是法音疑網皆已除の事 仰に云く法音とは南無妙法蓮華経なり、疑網とは最後品の無明を云うなり、此の経を持ち奉れば悉く除くと説かれたり、此の文は舎利弗が三重の無明・一時倶尽する事を領解せり、今日本国の一切衆生・法華経の法音を聞くと云えども未だ能く信ぜず豈疑網皆已に除かんや、除かざれば入阿鼻獄は疑


  • 自由語検索
※複数入力の場合、単語をスペースで区切ってください。
検索オプション