御書本文

御講聞書
827ページ

一根茎枝葉の事 仰に云く此の文をば釈には信戒定慧と云云、此の釈の心は草木は此の根茎枝葉を以て増長と云うなり、仏法修行するも又斯くの如し、所詮我等衆生・法華経を信じ奉るは根をつけたるが如し、法華経の文の如く是名持戒の戒体を本として、正直捨方便・但説無上道の如くなるは戒なり、法華経の文相にまかせて、法華三昧を修するは定なり、題目を唱え奉るは慧なり、所謂法界悉く生住異滅するは信・己己本分は戒・三世不改なるは定なり、各各の徳義を顕したるは慧なり、是れ即ち法界平等の根茎枝葉なり、是れ即ち真如実相の振舞なり、所謂戒定慧の三学・妙法蓮華経なり、此れを信ずるを根と云うなり、釈に云く三学倶に伝うるを名けて妙法と曰うと云云。
一根茎枝葉の事 仰に云く此れは我等が一身なり、根とは心法なり茎とは我等が頭より足に至るまでなり、枝とは手足なり、葉とは毛なり、此の四を根茎枝葉と説けり、法界三千此の四を具足せずと云う事なし、是れ即ち信戒定慧の体にして実相一理の南無妙法蓮華経の体なり、法華不信の人は根茎枝葉ありて増長あるべからず枯槁の衆生なるべし云云。
一枯槁衆生の事 仰に云く、法華経を持ち奉る者は、枯槁の衆生に非ざるなり、既に法華経の種子を受持し奉るが故なり、謗法不信の人は下種無き故に枯槁の衆生なり、されば、妙楽大師の云く、余教を以て種と為さず文。
一等雨法雨の事 仰に云く等とは平等の事なり、善人・悪人、二乗・闡提、正見・邪見等の者にも、妙法の雨を惜まず平等にふらすと云う事なり、されば法の雨を雨すと云う時は、大覚世尊ふらしてに成り給えり、さて、法の雨ふりてとよむ時は、本より実相平等の法雨は、常住本有の雨なれば、今始めてふるべきに非ず、されば、諸法実相を、譬喩品の時は風月に譬えたり、妙楽大師は何ぞ隠れ何ぞ顕れんと釈せり、実相の法雨は三世常恒に

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
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日蓮大聖人御書

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御講聞書 827ページ

一根茎枝葉の事 仰に云く此の文をば釈には信戒定慧と云云、此の釈の心は草木は此の根茎枝葉を以て増長と云うなり、仏法修行するも又斯くの如し、所詮我等衆生・法華経を信じ奉るは根をつけたるが如し、法華経の文の如く是名持戒の戒体を本として、正直捨方便・但説無上道の如くなるは戒なり、法華経の文相にまかせて、法華三昧を修するは定なり、題目を唱え奉るは慧なり、所謂法界悉く生住異滅するは信・己己本分は戒・三世不改なるは定なり、各各の徳義を顕したるは慧なり、是れ即ち法界平等の根茎枝葉なり、是れ即ち真如実相の振舞なり、所謂戒定慧の三学・妙法蓮華経なり、此れを信ずるを根と云うなり、釈に云く三学倶に伝うるを名けて妙法と曰うと云云。
一根茎枝葉の事 仰に云く此れは我等が一身なり、根とは心法なり茎とは我等が頭より足に至るまでなり、枝とは手足なり、葉とは毛なり、此の四を根茎枝葉と説けり、法界三千此の四を具足せずと云う事なし、是れ即ち信戒定慧の体にして実相一理の南無妙法蓮華経の体なり、法華不信の人は根茎枝葉ありて増長あるべからず枯槁の衆生なるべし云云。
一枯槁衆生の事 仰に云く、法華経を持ち奉る者は、枯槁の衆生に非ざるなり、既に法華経の種子を受持し奉るが故なり、謗法不信の人は下種無き故に枯槁の衆生なり、されば、妙楽大師の云く、余教を以て種と為さず文。
一等雨法雨の事 仰に云く等とは平等の事なり、善人・悪人、二乗・闡提、正見・邪見等の者にも、妙法の雨を惜まず平等にふらすと云う事なり、されば法の雨を雨すと云う時は、大覚世尊ふらしてに成り給えり、さて、法の雨ふりてとよむ時は、本より実相平等の法雨は、常住本有の雨なれば、今始めてふるべきに非ず、されば、諸法実相を、譬喩品の時は風月に譬えたり、妙楽大師は何ぞ隠れ何ぞ顕れんと釈せり、実相の法雨は三世常恒に


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