御書本文

御講聞書
829ページ

来りて大王のそなえに値うが如くの歓喜なりと云えり、然らば此の文の如くならば法華已前の人は餓鬼界の衆生なり、既に飢国来と説けり、大王饍とは醍醐味なり、中根の声聞・法華に来つて一乗醍醐の法味を得て忽に法王の位に備りたり、忽の字は爾前の迂廻道の機に対して忽と云うなり、速疾頓成の義を忽と云うなり、仮令外用の八相を唱うる事は所化をして仏道に進めんが為なり、所詮末法に入つては謗法の人人は餓鬼界の衆生なり、此の経に値い奉り・南無妙法蓮華経に値い奉る事は併ら大王饍たり、忽遇の遇の字肝要たり、釈に云く、成仏の難きには非ず、此の経に値うをかたしとすと云えり、不軽品に云く復遇常不軽と云云、厳王品に云く生値仏法云云、大王の饍に値いたり、最も以て南無妙法蓮華経を信受し奉る可きなり、此の経文の如くならば法華より外の一切衆生はいかに高貴の人なりとも餓鬼道の衆生なり、十羅刹女は餓鬼界の羅刹なれども法華経を受持し奉る故に餓鬼に即する一念三千なり、法華へ来らずんば何れも餓鬼飢饉の苦みなるべし、所詮必ず中根の声聞領解の言に我身を餓鬼に類する事は餓鬼は法界に食ありと云えども食する事を得ざるなり、諸法実相の一味の醍醐の妙法あれども終に開覚に能えざる間・四十余年食にうえたり云云、一義に云く序品方便より諸法実相の甘露顕れて南無妙法蓮華経あれども広略二重の譬説段まで悟らざるは餓鬼の満満とある食事をくらわざるが如し、所詮日本国の一切衆生は餓鬼界の衆生なり、大王饍とは所謂南無妙法蓮華経是なり、遇の字には人法を納めたり、仍つて末に如飢須教食と云えり、うえたるとも大王のをしえを待ちて醍醐を食するが如しと云えり、今南無妙法蓮華経有れども・今身より仏身に至るまでの受持をうけずんば成仏は之れ有るべからず、教とは爾前無得道・法華成仏の事なり、此の教をうけずんば法華経を読誦すとも大王の位に登る事・之れ有る可からず醍醐は題目の五字なり云云。
一大通智勝仏十劫坐道場仏法不現前不得成仏道の事 仰に云く此経文は一切衆生の本法流転を説かれたり、

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
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日蓮大聖人御書

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御講聞書 829ページ

来りて大王のそなえに値うが如くの歓喜なりと云えり、然らば此の文の如くならば法華已前の人は餓鬼界の衆生なり、既に飢国来と説けり、大王饍とは醍醐味なり、中根の声聞・法華に来つて一乗醍醐の法味を得て忽に法王の位に備りたり、忽の字は爾前の迂廻道の機に対して忽と云うなり、速疾頓成の義を忽と云うなり、仮令外用の八相を唱うる事は所化をして仏道に進めんが為なり、所詮末法に入つては謗法の人人は餓鬼界の衆生なり、此の経に値い奉り・南無妙法蓮華経に値い奉る事は併ら大王饍たり、忽遇の遇の字肝要たり、釈に云く、成仏の難きには非ず、此の経に値うをかたしとすと云えり、不軽品に云く復遇常不軽と云云、厳王品に云く生値仏法云云、大王の饍に値いたり、最も以て南無妙法蓮華経を信受し奉る可きなり、此の経文の如くならば法華より外の一切衆生はいかに高貴の人なりとも餓鬼道の衆生なり、十羅刹女は餓鬼界の羅刹なれども法華経を受持し奉る故に餓鬼に即する一念三千なり、法華へ来らずんば何れも餓鬼飢饉の苦みなるべし、所詮必ず中根の声聞領解の言に我身を餓鬼に類する事は餓鬼は法界に食ありと云えども食する事を得ざるなり、諸法実相の一味の醍醐の妙法あれども終に開覚に能えざる間・四十余年食にうえたり云云、一義に云く序品方便より諸法実相の甘露顕れて南無妙法蓮華経あれども広略二重の譬説段まで悟らざるは餓鬼の満満とある食事をくらわざるが如し、所詮日本国の一切衆生は餓鬼界の衆生なり、大王饍とは所謂南無妙法蓮華経是なり、遇の字には人法を納めたり、仍つて末に如飢須教食と云えり、うえたるとも大王のをしえを待ちて醍醐を食するが如しと云えり、今南無妙法蓮華経有れども・今身より仏身に至るまでの受持をうけずんば成仏は之れ有るべからず、教とは爾前無得道・法華成仏の事なり、此の教をうけずんば法華経を読誦すとも大王の位に登る事・之れ有る可からず醍醐は題目の五字なり云云。
一大通智勝仏十劫坐道場仏法不現前不得成仏道の事 仰に云く此経文は一切衆生の本法流転を説かれたり、


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