御書本文

御講聞書
841ページ

此の経文の意は、法華経は人天・二乗・菩薩・仏の眼目なり、此の眼目を弘むるは日蓮一人なり、此の眼には五眼あり、所謂肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり、此の眼をくじりて別に眼を入れたる人あり、所謂弘法大師是なり、法華経の一念三千・即身成仏・諸仏の開眼を止めて、真言経にありと云えり、是れ豈法華経の眼を抽れる人に非ずや、又此の眼をとじふさぐ人あり所謂法然上人是れなり、捨閉の閉の文字は、閉眼の義に非ずや、所詮能弘の人に約しては、日蓮等の類い世間之眼なり、所弘の法に随えば、此の大乗経典は、是れ諸仏の眼なり、所詮眼の一字は一念三千の法門なり、六万九千三百八十四字を此の眼の一字に納めたり、此の眼の字顕われて見れば煩悩即菩提・生死即涅槃なり、今末法に入つて、眼とは所謂未曾有の大曼荼羅なり、此の御本尊より外には眼目無きなり云云。
一法華経の行者に水火の行者の事 仰に云く総じて此の経を信じ奉る人に水火の不同あり、其の故は火の如きの行者は多く水の如き行者はまれなり、火の如しとは此の経のいわれをききて火炎のもえ立つが如く貴く殊勝に思いて信ずれども・やがて消失す、此れは当座は大信心と見えたれども・其の信心の灯・きゆる事やすし・さて水の如きの行者と申すは水は昼夜不退に流るるなり少しもやむ事なし、其の如く法華経を信ずるを水の行者とは云うなり云云。
一女人と妙と釈尊と一体の事 仰に云く女人は子を出生す、此の出生の子・又子を出生す此くの如く展転して無数の子を出生せり、此の出生の子に善子もあり・悪子もあり端厳美麗の子もあり・醜陋の子もあり・長のひくき子もあり・大なる子もあり・男子もあり・女子もあり云云、所詮・妙の一字より万法は出生せり地獄もあり・餓鬼もあり・乃至仏界もあり・権教もあり・実教もあり・善もあり・悪もあり・諸法を出生せり云云、又釈迦一仏の御身より一切の仏・菩薩等悉く出生せり、阿弥陀・薬師・大日等は悉く釈尊の一月より万水に浮ぶ所の万影なり、然らば

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
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日蓮大聖人御書

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御講聞書 841ページ

此の経文の意は、法華経は人天・二乗・菩薩・仏の眼目なり、此の眼目を弘むるは日蓮一人なり、此の眼には五眼あり、所謂肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり、此の眼をくじりて別に眼を入れたる人あり、所謂弘法大師是なり、法華経の一念三千・即身成仏・諸仏の開眼を止めて、真言経にありと云えり、是れ豈法華経の眼を抽れる人に非ずや、又此の眼をとじふさぐ人あり所謂法然上人是れなり、捨閉の閉の文字は、閉眼の義に非ずや、所詮能弘の人に約しては、日蓮等の類い世間之眼なり、所弘の法に随えば、此の大乗経典は、是れ諸仏の眼なり、所詮眼の一字は一念三千の法門なり、六万九千三百八十四字を此の眼の一字に納めたり、此の眼の字顕われて見れば煩悩即菩提・生死即涅槃なり、今末法に入つて、眼とは所謂未曾有の大曼荼羅なり、此の御本尊より外には眼目無きなり云云。
一法華経の行者に水火の行者の事 仰に云く総じて此の経を信じ奉る人に水火の不同あり、其の故は火の如きの行者は多く水の如き行者はまれなり、火の如しとは此の経のいわれをききて火炎のもえ立つが如く貴く殊勝に思いて信ずれども・やがて消失す、此れは当座は大信心と見えたれども・其の信心の灯・きゆる事やすし・さて水の如きの行者と申すは水は昼夜不退に流るるなり少しもやむ事なし、其の如く法華経を信ずるを水の行者とは云うなり云云。
一女人と妙と釈尊と一体の事 仰に云く女人は子を出生す、此の出生の子・又子を出生す此くの如く展転して無数の子を出生せり、此の出生の子に善子もあり・悪子もあり端厳美麗の子もあり・醜陋の子もあり・長のひくき子もあり・大なる子もあり・男子もあり・女子もあり云云、所詮・妙の一字より万法は出生せり地獄もあり・餓鬼もあり・乃至仏界もあり・権教もあり・実教もあり・善もあり・悪もあり・諸法を出生せり云云、又釈迦一仏の御身より一切の仏・菩薩等悉く出生せり、阿弥陀・薬師・大日等は悉く釈尊の一月より万水に浮ぶ所の万影なり、然らば


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