御書本文

御講聞書
842ページ

女人と妙と釈尊との三全く不同無きなり、妙楽大師の云く妙即三千・三千即法云云、提婆品に云く有一宝珠価直三千大千世界是なり云云。
一置不呵責の文の事 仰に云く此の経文に於ては日蓮等の類のおそるべき文字一字之れ有り、若し此の文字を恐れざれば縦い当座は事なしとも未来無間の業たるべし、然らば無間地獄へ引き入る獄卒なるべし夫れは置の一字是なり云云、此の置の一字は獄卒なるべし謗法不信の失を見ながら聞きながら云わずして置かんは必ず無間地獄へ堕在す可し、仍つて置の一字・獄卒・阿防羅刹なるべし尤も以て恐る可きは置の一字なり云云、所詮此の経文の内に獄卒の一字を恐るべきなり云云、此の獄卒の一字を深く之を思う可し、日蓮は此の字を恐る故に建長五年より今弘安年中まで在在所所にて申しはりしなり只偏に此の獄卒を脱れんが為なり、法華経には若人不信とも生疑不信者とも説き給えり、法華経の文文句句をひらき涅槃経の文文句句をひらきたりとも置いていわずんば叶う可からざるは此の置の一字より外に獄卒は無きなり云云。
一異念無く霊山浄土へ参る可き事 仰に云く異念とは不信の事なり若し我が心なりとも不信の意出来せば忽に信心に住すべし、所詮不信の心をば師となすべからず信心の心を師匠とすべし浄心信敬に法華経を修行し奉るべきなり、されば能持是経能説此経と説きて能の字を説かせ給えり霊山ここにあり四土一念皆常寂光とは是なり云云。
一不可失本心の事 仰に云く此の本心と云うは法華経の信心の事なり、失と申すは謗法の人にすかされて法華経を捨つる心の出来するを云うなり、されば天台大師云く若し悪友に値えば則ち本心を失うと云云、此の釈に悪友とは謗法の人の事なり、本心とは法華経なり、法華経を本心と云う意は諸法実相の御経なれば十界の衆生の心法を法華経とは申すなり、而るに此の本心を引きかえて迷妄の法に着するが故に本心を失うなり、此の本心に

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
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日蓮大聖人御書

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御講聞書 842ページ

女人と妙と釈尊との三全く不同無きなり、妙楽大師の云く妙即三千・三千即法云云、提婆品に云く有一宝珠価直三千大千世界是なり云云。
一置不呵責の文の事 仰に云く此の経文に於ては日蓮等の類のおそるべき文字一字之れ有り、若し此の文字を恐れざれば縦い当座は事なしとも未来無間の業たるべし、然らば無間地獄へ引き入る獄卒なるべし夫れは置の一字是なり云云、此の置の一字は獄卒なるべし謗法不信の失を見ながら聞きながら云わずして置かんは必ず無間地獄へ堕在す可し、仍つて置の一字・獄卒・阿防羅刹なるべし尤も以て恐る可きは置の一字なり云云、所詮此の経文の内に獄卒の一字を恐るべきなり云云、此の獄卒の一字を深く之を思う可し、日蓮は此の字を恐る故に建長五年より今弘安年中まで在在所所にて申しはりしなり只偏に此の獄卒を脱れんが為なり、法華経には若人不信とも生疑不信者とも説き給えり、法華経の文文句句をひらき涅槃経の文文句句をひらきたりとも置いていわずんば叶う可からざるは此の置の一字より外に獄卒は無きなり云云。
一異念無く霊山浄土へ参る可き事 仰に云く異念とは不信の事なり若し我が心なりとも不信の意出来せば忽に信心に住すべし、所詮不信の心をば師となすべからず信心の心を師匠とすべし浄心信敬に法華経を修行し奉るべきなり、されば能持是経能説此経と説きて能の字を説かせ給えり霊山ここにあり四土一念皆常寂光とは是なり云云。
一不可失本心の事 仰に云く此の本心と云うは法華経の信心の事なり、失と申すは謗法の人にすかされて法華経を捨つる心の出来するを云うなり、されば天台大師云く若し悪友に値えば則ち本心を失うと云云、此の釈に悪友とは謗法の人の事なり、本心とは法華経なり、法華経を本心と云う意は諸法実相の御経なれば十界の衆生の心法を法華経とは申すなり、而るに此の本心を引きかえて迷妄の法に着するが故に本心を失うなり、此の本心に


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