御書本文
らんとこそおぼすべけれ、これをもつて・しろしめせ弘法・慈覚等はあさましき事どもはあれども弟子ども隠せしかば公家にもしらせ給はず末の代は・いよいよ・あをぐなり、あらはす人なくば未来永劫までも・さであるべし、拘留外道は八百年ありて水となり、迦毘羅外道は一千年すぎてこそ其の失はあらわれしか。
夫れ人身をうくる事は五戒の力による、五戒を持てる者をば二十五の善神これをまほる上同生同名と申して二つの天生れしよりこのかた左右のかたに守護するゆへに失なくて鬼神あだむことなし、しかるに此の国の無量の諸人なげきを・なすのみならず、ゆきつしまの両国の人・皆事にあひぬ太宰府又申すばかりなし、此の国はいかなるとがのあるやらん・しらまほしき事なり、一人・二人こそ失も・あるらめ・そこばくの人人いかん、これひとへに法華経をさぐる弘法・慈覚・智証等の末の真言師・善導・法然が末の弟子等・達磨等の人人の末の者ども国中に充満せり、故に梵釈・四天等の法華経の座の誓状のごとく頭破作七分の失にあてらるるなり。
疑つて云く法華経の行者をあだむ者は頭破作七分ととかれて候に・日蓮房をそしれども頭もわれぬは日蓮房は法華経の行者にはあらざるかと申すは道理なりとをぼへ候はいかん、答えて云く日蓮を法華経の行者にてなしと申さば法華経をなげすてよとかける法然等・無明の辺域としるせる弘法大師・理同事勝と宣たる善無畏・慈覚等が法華経の行者にてあるべきか、又頭破作七分と申す事はいかなる事ぞ刀をもてきるやうにわるるとしれるか、経文には如阿梨樹枝とこそとかれたれ、人の頭に七滴あり七鬼神ありて一滴食へば頭をいたむ三滴を食へば寿絶えんとす七滴皆食えば死するなり、今の世の人人は皆頭阿梨樹の枝のごとくに・われたれども悪業ふかくして・しらざるなり、例せばてをおいたる人の或は酒にゑい或はねいりぬれば・をぼえざるが如し、又頭破作七分と申すは或は心破作七分とも申して頂の皮の底にある骨のひびたふるなり、死ぬる時は・わるる事もあり、今の世の人人は去ぬる正嘉の大地震・文永の大彗星に皆頭われて候なり、其の頭のわれし時ぜひぜひやみ・五臓の損ぜし時あかき
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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種種御振舞御書 | 55 | 光日房 |
日蓮大聖人御書
検索結果詳細 御書本文
種種御振舞御書 924ページ
らんとこそおぼすべけれ、これをもつて・しろしめせ弘法・慈覚等はあさましき事どもはあれども弟子ども隠せしかば公家にもしらせ給はず末の代は・いよいよ・あをぐなり、あらはす人なくば未来永劫までも・さであるべし、拘留外道は八百年ありて水となり、迦毘羅外道は一千年すぎてこそ其の失はあらわれしか。
夫れ人身をうくる事は五戒の力による、五戒を持てる者をば二十五の善神これをまほる上同生同名と申して二つの天生れしよりこのかた左右のかたに守護するゆへに失なくて鬼神あだむことなし、しかるに此の国の無量の諸人なげきを・なすのみならず、ゆきつしまの両国の人・皆事にあひぬ太宰府又申すばかりなし、此の国はいかなるとがのあるやらん・しらまほしき事なり、一人・二人こそ失も・あるらめ・そこばくの人人いかん、これひとへに法華経をさぐる弘法・慈覚・智証等の末の真言師・善導・法然が末の弟子等・達磨等の人人の末の者ども国中に充満せり、故に梵釈・四天等の法華経の座の誓状のごとく頭破作七分の失にあてらるるなり。
疑つて云く法華経の行者をあだむ者は頭破作七分ととかれて候に・日蓮房をそしれども頭もわれぬは日蓮房は法華経の行者にはあらざるかと申すは道理なりとをぼへ候はいかん、答えて云く日蓮を法華経の行者にてなしと申さば法華経をなげすてよとかける法然等・無明の辺域としるせる弘法大師・理同事勝と宣たる善無畏・慈覚等が法華経の行者にてあるべきか、又頭破作七分と申す事はいかなる事ぞ刀をもてきるやうにわるるとしれるか、経文には如阿梨樹枝とこそとかれたれ、人の頭に七滴あり七鬼神ありて一滴食へば頭をいたむ三滴を食へば寿絶えんとす七滴皆食えば死するなり、今の世の人人は皆頭阿梨樹の枝のごとくに・われたれども悪業ふかくして・しらざるなり、例せばてをおいたる人の或は酒にゑい或はねいりぬれば・をぼえざるが如し、又頭破作七分と申すは或は心破作七分とも申して頂の皮の底にある骨のひびたふるなり、死ぬる時は・わるる事もあり、今の世の人人は去ぬる正嘉の大地震・文永の大彗星に皆頭われて候なり、其の頭のわれし時ぜひぜひやみ・五臓の損ぜし時あかき
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