御書本文

曾谷殿御返事
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はさぶらいのくらい・あるいはたみの位なりけるを或は般若経は法華経にはすぐれたり三論宗・或は深密経は法華経にすぐれたり法相宗・或は華厳経は法華経にすぐれたり華厳宗・或は律宗は諸宗の母なりなんど申して一人として法華経の行者なし、世間に法華経を読誦するは還つてをこづき・うしなうなり、「之に依つて天もいかり守護の善神も力よはし」云云、所謂「法華経を・ほむといえども返つて法華の心をころす」等云云、南都七大寺・十五大寺・日本国中の諸寺諸山の諸僧等・此のことばを・ききて・をほきにいかり天竺の大天・漢土の道士・我が国に出来せり所謂最澄と申す小法師是なり、せんずる所は行きあはむずる処にてかしらをわれ・かたをきれ・をとせ・うてのれと申せしかども桓武天皇と申す賢王たづね・あきらめて六宗はひが事なりけりとて初めてひへい山をこんりうして天台法華宗とさだめをかせ円頓の戒を建立し給うのみならず、七大寺・十五大寺の六宗の上に法華宗をそへをかる、せんずる所・六宗を法華経の方便となされしなり、れいせば神の仏にまけて門まほりとなりしがごとし、日本国も又又かくのごとし法華最第一の経文初めて此の国に顕れ給い能竊為一人・説法華経の如来の使初めて此の国に入り給いぬ、桓武・平城・嵯峨の三代・二十余年が間は日本一州・皆法華経の行者なり、しかれば栴檀には伊蘭・釈尊には提婆のごとく伝教大師と同時に弘法大師と申す聖人・出現せり、漢土にわたりて大日経・真言宗をならい日本国にわたりて・ありしかども伝教大師の御存生の御時はいたう法華経に大日経すぐれたりといふ事はいはざりけるが、伝教大師去ぬる弘仁十三年六月四日にかくれさせ給いてのち・ひまをえたりとや・をもひけん、弘法大師去ぬる弘仁十四年正月十九日に真言第一・華厳第二・法華第三・法華経は戯論の法・無明の辺域・天台宗等は盗人なりなんど申す書どもをつくりて、嵯峨の皇帝を申しかすめたてまつりて七宗に真言宗を申しくはえて七宗を方便とし真言宗は真実なりと申し立て畢んぬ。
 其の後・日本一州の人ごとに真言宗になりし上・其の後又伝教大師の御弟子・慈覚と申す人・漢土にわたりて天台

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
曾谷殿御返事 58   身延

日蓮大聖人御書

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曾谷殿御返事 1,063ページ

はさぶらいのくらい・あるいはたみの位なりけるを或は般若経は法華経にはすぐれたり三論宗・或は深密経は法華経にすぐれたり法相宗・或は華厳経は法華経にすぐれたり華厳宗・或は律宗は諸宗の母なりなんど申して一人として法華経の行者なし、世間に法華経を読誦するは還つてをこづき・うしなうなり、「之に依つて天もいかり守護の善神も力よはし」云云、所謂「法華経を・ほむといえども返つて法華の心をころす」等云云、南都七大寺・十五大寺・日本国中の諸寺諸山の諸僧等・此のことばを・ききて・をほきにいかり天竺の大天・漢土の道士・我が国に出来せり所謂最澄と申す小法師是なり、せんずる所は行きあはむずる処にてかしらをわれ・かたをきれ・をとせ・うてのれと申せしかども桓武天皇と申す賢王たづね・あきらめて六宗はひが事なりけりとて初めてひへい山をこんりうして天台法華宗とさだめをかせ円頓の戒を建立し給うのみならず、七大寺・十五大寺の六宗の上に法華宗をそへをかる、せんずる所・六宗を法華経の方便となされしなり、れいせば神の仏にまけて門まほりとなりしがごとし、日本国も又又かくのごとし法華最第一の経文初めて此の国に顕れ給い能竊為一人・説法華経の如来の使初めて此の国に入り給いぬ、桓武・平城・嵯峨の三代・二十余年が間は日本一州・皆法華経の行者なり、しかれば栴檀には伊蘭・釈尊には提婆のごとく伝教大師と同時に弘法大師と申す聖人・出現せり、漢土にわたりて大日経・真言宗をならい日本国にわたりて・ありしかども伝教大師の御存生の御時はいたう法華経に大日経すぐれたりといふ事はいはざりけるが、伝教大師去ぬる弘仁十三年六月四日にかくれさせ給いてのち・ひまをえたりとや・をもひけん、弘法大師去ぬる弘仁十四年正月十九日に真言第一・華厳第二・法華第三・法華経は戯論の法・無明の辺域・天台宗等は盗人なりなんど申す書どもをつくりて、嵯峨の皇帝を申しかすめたてまつりて七宗に真言宗を申しくはえて七宗を方便とし真言宗は真実なりと申し立て畢んぬ。
 其の後・日本一州の人ごとに真言宗になりし上・其の後又伝教大師の御弟子・慈覚と申す人・漢土にわたりて天台


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