御書本文

法門申さるべき様の事 十章抄
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にもをとらず、提婆菩薩の外道に殺され師子尊者の檀弥利王に頸をはねられしにもをとるべきか、もししからば八幡大菩薩は日蓮が頂を・はなれさせ給いてはいづれの人の頂にかすみ給はん、日蓮を此の国に用いずば・いかんがすべきと・なげかれ候なりと申せ、又日蓮房の申し候・仏菩薩並びに諸大善神をかへしまいらせん事は別の術なし、禅宗・念仏宗の寺寺を一つもなく失い其の僧らを・いましめ叡山の講堂を造り霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請じ入れたてまつらざらん外は諸神もかへり給うべからず、諸仏も此の国を扶け給はん事はかたしと申せ。

十章抄

 十 章 抄 文永八年五月 五十歳御作
 与三位公日行
 華厳宗と申す宗は華厳経の円と法華経の円とは一なり而れども法華経の円は華厳の円の枝末と云云、法相・三論も又又かくのごとし、天台宗・彼の義に同ぜば別宗と立てなにかせん、例せば法華・涅槃は一つ円なり先後に依つて涅槃尚をとるとさだむ、爾前の円・法華の円を一とならば先後によりて法華豈劣らざらんや、詮ずるところ・この邪義のをこり此妙彼妙・円実不異・円頓義斉・前三為麤等の釈にばかされて起る義なり、止観と申すも円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ、又二の巻の四種三昧は多分は念仏と見へて候なり、源濁れば流清からずと申して爾前の円と法華経の円と一つと申す者が止観を人によませ候えば但念仏者のごとくにて候なり、但止観は迹門より出たり・本門より出たり・本迹に亘ると申す三つの義いにしえより・これあり、これは且くこれををく、故に知る一部の文共に円乗開権の妙観を成ずと申して止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり、爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をばかれども義をばけづりすてたるなり、「境は昔に寄ると雖も智は必ず円に依る」と申して文殊問・方等・請観音等の諸経を引いて四種を立つれども心は必ず

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
法門申さるべき様の事 48 三位公日行 鎌倉
十章抄 50 三位公日行 鎌倉

日蓮大聖人御書

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法門申さるべき様の事 十章抄 1,273ページ

にもをとらず、提婆菩薩の外道に殺され師子尊者の檀弥利王に頸をはねられしにもをとるべきか、もししからば八幡大菩薩は日蓮が頂を・はなれさせ給いてはいづれの人の頂にかすみ給はん、日蓮を此の国に用いずば・いかんがすべきと・なげかれ候なりと申せ、又日蓮房の申し候・仏菩薩並びに諸大善神をかへしまいらせん事は別の術なし、禅宗・念仏宗の寺寺を一つもなく失い其の僧らを・いましめ叡山の講堂を造り霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請じ入れたてまつらざらん外は諸神もかへり給うべからず、諸仏も此の国を扶け給はん事はかたしと申せ。

十章抄

 十 章 抄 文永八年五月 五十歳御作
 与三位公日行
 華厳宗と申す宗は華厳経の円と法華経の円とは一なり而れども法華経の円は華厳の円の枝末と云云、法相・三論も又又かくのごとし、天台宗・彼の義に同ぜば別宗と立てなにかせん、例せば法華・涅槃は一つ円なり先後に依つて涅槃尚をとるとさだむ、爾前の円・法華の円を一とならば先後によりて法華豈劣らざらんや、詮ずるところ・この邪義のをこり此妙彼妙・円実不異・円頓義斉・前三為麤等の釈にばかされて起る義なり、止観と申すも円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ、又二の巻の四種三昧は多分は念仏と見へて候なり、源濁れば流清からずと申して爾前の円と法華経の円と一つと申す者が止観を人によませ候えば但念仏者のごとくにて候なり、但止観は迹門より出たり・本門より出たり・本迹に亘ると申す三つの義いにしえより・これあり、これは且くこれををく、故に知る一部の文共に円乗開権の妙観を成ずと申して止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり、爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をばかれども義をばけづりすてたるなり、「境は昔に寄ると雖も智は必ず円に依る」と申して文殊問・方等・請観音等の諸経を引いて四種を立つれども心は必ず


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