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法門申さるべき様の事
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法門申さるべき様の事

 法門申さるべき様の事 文永六年 四十八歳御作
 与三位公日行
 法門申さるべきやう、選択をば・うちをきて先ず法華経の第二の巻の今此三界の文を開いて釈尊は我等が親父なり等定め了るべし、何の仏か我等が父母にてはをはします、外典三千余巻にも忠孝の二字こそせんにて候なれ忠は又孝の家より出ずとこそ申し候なれ、されば外典は内典の初門・此の心は内典にたがわず候か、人に尊卑・上下はありといえども親を孝するにはすぎずと定められたるか、釈尊は我等が父母なり一代の聖教は父母の子を教えたる教経なるべし、其の中に天上・竜宮・天竺なんどには無量無辺の御経ましますなれども、漢土日本にはわづかに五千・七千余巻なり、此等の経経の次第・勝劣等は私には弁えがたう候、而るに論師・大師・先徳には末代の人の智慧こへがたければ彼の人人の料簡を用ゆべきかのところに、華厳宗の五教四教・法相三論の三時二蔵・或は三転法輪・世尊法久後要当説真実の文は又法華経より出て候・金口の明説なり、仏説すでに大に分れて二途なり、譬へば世間の父母の譲の前判後判のごとし、はた又世間の前判後判は如来の金言をまなびたるか、孝不孝の根本は前判後判の用不用より事をこれり、かう立て申すならば人人さもやと・をぼしめしたらん時申すべし。
 抑浄土の三部経等の諸宗の依経は当分四十余年の内なり、世尊は我等が慈父として未顕真実ぞと定めさせ給ふ御心は・かの四十余年の経経に付けとをぼしめし候か、又説真実の言にうつれとをぼしめし候か、心あらん人人・御賢察候べきかと・しばらくあぢわひてよも仏程の親父の一切衆生を一子とをぼしめすが真実なる事をすてて未顕真実の不実なる事に付けとは・をぼしめさじ、さて法華経にうつり候はんは四十余年の経経をすてて遷り候べきか、はた又かの経経並びに南無阿弥陀仏等をば・すてずして遷り候べきかと・おぼしきところに凡夫の私の・

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
法門申さるべき様の事 48 三位公日行 鎌倉

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法門申さるべき様の事

 法門申さるべき様の事 文永六年 四十八歳御作
 与三位公日行
 法門申さるべきやう、選択をば・うちをきて先ず法華経の第二の巻の今此三界の文を開いて釈尊は我等が親父なり等定め了るべし、何の仏か我等が父母にてはをはします、外典三千余巻にも忠孝の二字こそせんにて候なれ忠は又孝の家より出ずとこそ申し候なれ、されば外典は内典の初門・此の心は内典にたがわず候か、人に尊卑・上下はありといえども親を孝するにはすぎずと定められたるか、釈尊は我等が父母なり一代の聖教は父母の子を教えたる教経なるべし、其の中に天上・竜宮・天竺なんどには無量無辺の御経ましますなれども、漢土日本にはわづかに五千・七千余巻なり、此等の経経の次第・勝劣等は私には弁えがたう候、而るに論師・大師・先徳には末代の人の智慧こへがたければ彼の人人の料簡を用ゆべきかのところに、華厳宗の五教四教・法相三論の三時二蔵・或は三転法輪・世尊法久後要当説真実の文は又法華経より出て候・金口の明説なり、仏説すでに大に分れて二途なり、譬へば世間の父母の譲の前判後判のごとし、はた又世間の前判後判は如来の金言をまなびたるか、孝不孝の根本は前判後判の用不用より事をこれり、かう立て申すならば人人さもやと・をぼしめしたらん時申すべし。
 抑浄土の三部経等の諸宗の依経は当分四十余年の内なり、世尊は我等が慈父として未顕真実ぞと定めさせ給ふ御心は・かの四十余年の経経に付けとをぼしめし候か、又説真実の言にうつれとをぼしめし候か、心あらん人人・御賢察候べきかと・しばらくあぢわひてよも仏程の親父の一切衆生を一子とをぼしめすが真実なる事をすてて未顕真実の不実なる事に付けとは・をぼしめさじ、さて法華経にうつり候はんは四十余年の経経をすてて遷り候べきか、はた又かの経経並びに南無阿弥陀仏等をば・すてずして遷り候べきかと・おぼしきところに凡夫の私の・


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