御書本文

十法界明因果抄
436ページ

華厳経に云く「初発心の時便ち正覚を成ず」文、大品経に云く「初発心の時即ち道場に坐す」文、此等の文の如くんば四十余年の大乗戒に於て法華経の如く速疾頓成の戒有り何ぞ但歴劫修行の戒なりと云うや、答えて云く此れに於て二義有り一義に云く四十余年の間に於て歴劫修行の戒と速疾頓成の戒と有り法華経に於ては但一つの速疾頓成の戒のみ有り、其の中に於て四十余年の間の歴劫修行の戒に於ては法華経の戒に劣ると雖も四十余年の間の速疾頓成の戒に於ては法華経の戒に同じ、故に上に出す所の衆生仏戒を受れば即ち諸仏の位に入る等の文は法華経の須臾聞之・即得究竟の文に之同じ、但し無量義経に四十余年の経を挙げて歴劫修行等と云えるは四十余年の内の歴劫修行の戒計りを嫌うなり速疾頓成の戒をば嫌わざるなり、一義に云く四十余年の間の戒は一向に歴劫修行の戒・法華経の戒は速疾頓成の戒なり、但し上に出す所の四十余年の諸経の速疾頓成の戒に於ては凡夫地より速疾頓成するに非ず凡夫地より無量の行を成じて無量劫を経最後に於て凡夫地より即身成仏す、故に最後に従えて速疾頓成とは説くなり、委悉に之を論ぜば歴劫修行の所摂なり、故に無量義経には総て四十余年の経を挙げて仏・無量義経の速疾頓成に対して宣説菩薩歴劫修行と嫌いたまえり、大荘厳菩薩の此の義を承けて領解して云く「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過れども終に無上菩提を成ずることを得ず、何を以ての故に菩提の大直道を知らざるが故に険逕を行くに留難多きが故に、乃至大直道を行くに留難無きが故に」文、若し四十余年の間に無量義経・法華経の如く速疾頓成の戒之れ有れば仏猥りに四十余年の実義を隠し給うの失之れ有り云云、二義の中に後の義を作る者は存知の義なり、相待妙の戒是なり、次に絶待妙の戒とは法華経に於ては別の戒無し、爾前の戒即ち法華経の戒なり其の故は爾前の人天の楊葉戒・小乗阿含経の二乗の瓦器戒・華厳・方等・般若・観経等の歴劫菩薩の金銀戒の行者法華経に至つて互に和会して一同と成る、所以に人天の楊葉戒の人は二乗の瓦器・菩薩の金銀戒を具し菩薩の金銀戒に人天の楊葉・二乗の瓦器を具す余は以て知んぬ可し、三悪道の人は現身に於て戒

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
十法界明因果抄 39   鎌倉

日蓮大聖人御書

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十法界明因果抄 436ページ

華厳経に云く「初発心の時便ち正覚を成ず」文、大品経に云く「初発心の時即ち道場に坐す」文、此等の文の如くんば四十余年の大乗戒に於て法華経の如く速疾頓成の戒有り何ぞ但歴劫修行の戒なりと云うや、答えて云く此れに於て二義有り一義に云く四十余年の間に於て歴劫修行の戒と速疾頓成の戒と有り法華経に於ては但一つの速疾頓成の戒のみ有り、其の中に於て四十余年の間の歴劫修行の戒に於ては法華経の戒に劣ると雖も四十余年の間の速疾頓成の戒に於ては法華経の戒に同じ、故に上に出す所の衆生仏戒を受れば即ち諸仏の位に入る等の文は法華経の須臾聞之・即得究竟の文に之同じ、但し無量義経に四十余年の経を挙げて歴劫修行等と云えるは四十余年の内の歴劫修行の戒計りを嫌うなり速疾頓成の戒をば嫌わざるなり、一義に云く四十余年の間の戒は一向に歴劫修行の戒・法華経の戒は速疾頓成の戒なり、但し上に出す所の四十余年の諸経の速疾頓成の戒に於ては凡夫地より速疾頓成するに非ず凡夫地より無量の行を成じて無量劫を経最後に於て凡夫地より即身成仏す、故に最後に従えて速疾頓成とは説くなり、委悉に之を論ぜば歴劫修行の所摂なり、故に無量義経には総て四十余年の経を挙げて仏・無量義経の速疾頓成に対して宣説菩薩歴劫修行と嫌いたまえり、大荘厳菩薩の此の義を承けて領解して云く「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過れども終に無上菩提を成ずることを得ず、何を以ての故に菩提の大直道を知らざるが故に険逕を行くに留難多きが故に、乃至大直道を行くに留難無きが故に」文、若し四十余年の間に無量義経・法華経の如く速疾頓成の戒之れ有れば仏猥りに四十余年の実義を隠し給うの失之れ有り云云、二義の中に後の義を作る者は存知の義なり、相待妙の戒是なり、次に絶待妙の戒とは法華経に於ては別の戒無し、爾前の戒即ち法華経の戒なり其の故は爾前の人天の楊葉戒・小乗阿含経の二乗の瓦器戒・華厳・方等・般若・観経等の歴劫菩薩の金銀戒の行者法華経に至つて互に和会して一同と成る、所以に人天の楊葉戒の人は二乗の瓦器・菩薩の金銀戒を具し菩薩の金銀戒に人天の楊葉・二乗の瓦器を具す余は以て知んぬ可し、三悪道の人は現身に於て戒


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