御書本文
無し過去に於て人天に生れし時人天の楊葉・二乗の瓦器・菩薩の金銀戒を持ち退して三悪道に堕す、然りと雖も其の功徳未だ失せず之有り三悪道の人・法華経に入る時其の戒之を起す故に三悪道にも亦十界を具す、故に爾前の十界の人法華経に来至すれば皆持戒なり、故に法華経に云く「是を持戒と名く」文、安然和尚の広釈に云く「法華に云く能く法華を説く是を持戒と名く」文、爾前経の如く師に随つて、戒を持せず但此の経を信ずるが即ち持戒なり、爾前の経には十界互具を明さず故に菩薩無量劫を経て修行すれども二乗・人天等の余戒の功徳無く但一界の功徳を成ず故に一界の功徳を以て成仏を遂げず、故に一界の功徳も亦成ぜず、爾前の人・法華経に至りぬれば余界の功徳を一界に具す、故に爾前の経即ち法華経なり法華経即ち爾前の経なり、法華経は爾前の経を離れず爾前の経は法華経を離れず是を妙法と言う、此の覚り起りて後は行者・阿含小乗経を読むとも即ち一切の大乗経を読誦し法華経を読む人なり、故に法華経に云く「声聞の法を決了すれば是諸経の王なり」文、阿含経即ち法華経と云う文なり、「一仏乗に於て分別して三と説く」文、華厳・方等・般若即ち法華経と云う文なり、「若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも皆正法に順ず」文、一切の外道・老子・孔子等の経は即ち法華経と云ふ文なり、梵網経等の権大乗の戒と法華経の戒とに多くの差別有り、一には彼の戒は二乗七逆の者を許さず二には戒の功徳に仏果を具せず三には彼は歴劫修行の戒なり是くの如き等の多くの失有り、法華経に於ては二乗七逆の者を許す上・博地の凡夫・一生の中に仏位に入り妙覚に至つて因果の功徳を具するなり。
正元二年庚申四月二十一日 日 蓮 花押
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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十法界明因果抄 | 39 | 鎌倉 |
日蓮大聖人御書
検索結果詳細 御書本文
十法界明因果抄 437ページ
無し過去に於て人天に生れし時人天の楊葉・二乗の瓦器・菩薩の金銀戒を持ち退して三悪道に堕す、然りと雖も其の功徳未だ失せず之有り三悪道の人・法華経に入る時其の戒之を起す故に三悪道にも亦十界を具す、故に爾前の十界の人法華経に来至すれば皆持戒なり、故に法華経に云く「是を持戒と名く」文、安然和尚の広釈に云く「法華に云く能く法華を説く是を持戒と名く」文、爾前経の如く師に随つて、戒を持せず但此の経を信ずるが即ち持戒なり、爾前の経には十界互具を明さず故に菩薩無量劫を経て修行すれども二乗・人天等の余戒の功徳無く但一界の功徳を成ず故に一界の功徳を以て成仏を遂げず、故に一界の功徳も亦成ぜず、爾前の人・法華経に至りぬれば余界の功徳を一界に具す、故に爾前の経即ち法華経なり法華経即ち爾前の経なり、法華経は爾前の経を離れず爾前の経は法華経を離れず是を妙法と言う、此の覚り起りて後は行者・阿含小乗経を読むとも即ち一切の大乗経を読誦し法華経を読む人なり、故に法華経に云く「声聞の法を決了すれば是諸経の王なり」文、阿含経即ち法華経と云う文なり、「一仏乗に於て分別して三と説く」文、華厳・方等・般若即ち法華経と云う文なり、「若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも皆正法に順ず」文、一切の外道・老子・孔子等の経は即ち法華経と云ふ文なり、梵網経等の権大乗の戒と法華経の戒とに多くの差別有り、一には彼の戒は二乗七逆の者を許さず二には戒の功徳に仏果を具せず三には彼は歴劫修行の戒なり是くの如き等の多くの失有り、法華経に於ては二乗七逆の者を許す上・博地の凡夫・一生の中に仏位に入り妙覚に至つて因果の功徳を具するなり。
正元二年庚申四月二十一日 日 蓮 花押
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