御書本文
と云わん尚人師の釈を以て仏説に同ずる失甚重なり、何に況や止観は法華経に勝ると云う邪義を申し出すは但是れ本化の弘経と迹化の弘通と・像法と末法と迹門の付属と本門の付属とを末法の行者に云い顕わさせん為の仏天の御計いなり、爰に知んぬ当世天台宗の中に此の義を云う人は祖師天台の為には不知恩の人なり豈其の過を免れんや、夫れ天台大師は昔霊山に在ては薬王と名け・今漢土に在ては天台と名け・日本国の中にては伝教と名く三世の弘通倶に妙法と名く、是くの如く法華経を弘通し給う人は在世の釈尊より外は三国に其の名を聞かず有り難く御坐します大師を其の末学其の教釈を悪く習うて失無き天台に失を懸けたてまつる豈大罪に非ずや。
今問う天台の本意は何法ぞや碩学等の云く「一心三観是なり」今云く一実円満の一心三観とは誠に甚深なるに似たれども尚以て行者修行の方法なり三観とは因の義なるが故なり慈覚大師の釈に云く「三観とは法体を得せしめんが為の修観なり」云云、伝教大師云く「今止観修行とは法華の妙果を成ぜんが為なり」云云、故に知んぬ一心三観とは果地・果徳の法門を成ぜんが為の能観の心なることを何に況や三観とは言説に出でたる法なる故に如来の果地・果徳の妙法に対すれば可思議の三観なり。
問う一心三観に勝れたる法とは何なる法ぞや、答う此の事誠に一大事の法門なり唯仏与仏の境界なるが故に我等が言説に出す可からざるが故に是を申す可らざるなり、是を以て経文には「我が法は妙にして思い難し言を以て宣ぶ可からず」云云妙覚果満の仏すら尚不可説・不思議の法と説き給う何に況や等覚の菩薩已下乃至凡夫をや、問う名字を聞かずんば何を以て勝法有りと知ることを得んや、答う天台己証の法とは是なり、当世の学者は血脈相承を習い失う故に之を知らざるなり故に相構え相構えて秘す可く秘す可き法門なり、然りと雖も汝が志神妙なれば其の名を出すなり一言の法是なり伝教大師の一心三観一言に伝うと書き給う是なり、問う未だ其の法体を聞かず如何、答う所詮一言とは妙法是なり、問う何を以て妙法は一心三観に勝れたりと云う事を知ることを得る
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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立正観抄 | 53 | 身延 |
日蓮大聖人御書
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立正観抄 530ページ
と云わん尚人師の釈を以て仏説に同ずる失甚重なり、何に況や止観は法華経に勝ると云う邪義を申し出すは但是れ本化の弘経と迹化の弘通と・像法と末法と迹門の付属と本門の付属とを末法の行者に云い顕わさせん為の仏天の御計いなり、爰に知んぬ当世天台宗の中に此の義を云う人は祖師天台の為には不知恩の人なり豈其の過を免れんや、夫れ天台大師は昔霊山に在ては薬王と名け・今漢土に在ては天台と名け・日本国の中にては伝教と名く三世の弘通倶に妙法と名く、是くの如く法華経を弘通し給う人は在世の釈尊より外は三国に其の名を聞かず有り難く御坐します大師を其の末学其の教釈を悪く習うて失無き天台に失を懸けたてまつる豈大罪に非ずや。
今問う天台の本意は何法ぞや碩学等の云く「一心三観是なり」今云く一実円満の一心三観とは誠に甚深なるに似たれども尚以て行者修行の方法なり三観とは因の義なるが故なり慈覚大師の釈に云く「三観とは法体を得せしめんが為の修観なり」云云、伝教大師云く「今止観修行とは法華の妙果を成ぜんが為なり」云云、故に知んぬ一心三観とは果地・果徳の法門を成ぜんが為の能観の心なることを何に況や三観とは言説に出でたる法なる故に如来の果地・果徳の妙法に対すれば可思議の三観なり。
問う一心三観に勝れたる法とは何なる法ぞや、答う此の事誠に一大事の法門なり唯仏与仏の境界なるが故に我等が言説に出す可からざるが故に是を申す可らざるなり、是を以て経文には「我が法は妙にして思い難し言を以て宣ぶ可からず」云云妙覚果満の仏すら尚不可説・不思議の法と説き給う何に況や等覚の菩薩已下乃至凡夫をや、問う名字を聞かずんば何を以て勝法有りと知ることを得んや、答う天台己証の法とは是なり、当世の学者は血脈相承を習い失う故に之を知らざるなり故に相構え相構えて秘す可く秘す可き法門なり、然りと雖も汝が志神妙なれば其の名を出すなり一言の法是なり伝教大師の一心三観一言に伝うと書き給う是なり、問う未だ其の法体を聞かず如何、答う所詮一言とは妙法是なり、問う何を以て妙法は一心三観に勝れたりと云う事を知ることを得る
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