御書本文

立正観抄
531ページ

や、答う妙法は所詮の功徳なり三観は行者の観門なる故なり此の妙法を仏説いて言く「道場所得法・我法妙難思・是法非思量・不可以言宣」云云、天台の云く「妙は不可思議・言語道断・心行所滅なり法は十界十如・因果不二の法なり」と、三諦と云うも三観と云うも三千と云うも共に不思議法とは云えども天台の己証天台の御思慮の及ぶ所の法門なり、此の妙法は諸仏の師なり今の経文の如くならば久遠実成の妙覚極果の仏の境界にして爾前迹門の教主・諸仏菩薩の境界に非ず経に唯仏与仏・乃能究尽とは迹門の界如三千の法門をば迹門の仏が当分究竟の辺を説けるなり、本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず何に況や菩薩凡夫をや、止観の二字をば観名仏知・止名仏見と釈すれども迹門の仏智仏見にして妙覚極果の知見には非ざるなり、其の故は止観は天台己証の界如三千・三諦三観を正と為す迹門の正意是なり、故に知んぬ迹仏の知見なりと云う事を但止観に絶待不思議の妙観を明かすと云えども只一念三千の妙観に且らく与えて絶待不思議と名けるなり。
 問う天台大師真実に此の一言の妙法を証得したまわざるや、答う内証爾らざるなり、外用に於ては之を弘通したまわざるなり、所謂内証の辺をば秘して外用には三観と号して一念三千の法門を示現し給うなり、問う何が故ぞ知り乍ら弘通し給わざるや、答う時至らざるが故に付属に非ざるが故に迹化なるが故なり、問う天台此の一言の妙法を証得し給える証拠之有りや、答う此の事天台一家の秘事なり世に流布せる学者之を知らず灌頂玄旨の血脈とて天台大師自筆の血脈一紙之有り、天台御入滅の後は石塔の中に之有り伝教大師御入唐の時八舌の鑰を以て之を開き道邃和尚より伝受し給う血脈とは是なり、此の書に云く「一言の妙旨・一教の玄義」文、伝教大師の血脈に云く「夫れ一言の妙法とは両眼を開いて五塵の境を見る時は随縁真如なるべし両眼を閉じて無念に住する時は不変真如なるべし、故に此の一言を聞くに万法玆に達し一代の修多羅一言に含す」文、此の両大師の血脈の如くならば天台大師の血脈相承の最要の法は妙法の一言なり、一心三観とは所詮妙法を成就せん為の修行の方法

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
立正観抄 53   身延

日蓮大聖人御書

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立正観抄 531ページ

や、答う妙法は所詮の功徳なり三観は行者の観門なる故なり此の妙法を仏説いて言く「道場所得法・我法妙難思・是法非思量・不可以言宣」云云、天台の云く「妙は不可思議・言語道断・心行所滅なり法は十界十如・因果不二の法なり」と、三諦と云うも三観と云うも三千と云うも共に不思議法とは云えども天台の己証天台の御思慮の及ぶ所の法門なり、此の妙法は諸仏の師なり今の経文の如くならば久遠実成の妙覚極果の仏の境界にして爾前迹門の教主・諸仏菩薩の境界に非ず経に唯仏与仏・乃能究尽とは迹門の界如三千の法門をば迹門の仏が当分究竟の辺を説けるなり、本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず何に況や菩薩凡夫をや、止観の二字をば観名仏知・止名仏見と釈すれども迹門の仏智仏見にして妙覚極果の知見には非ざるなり、其の故は止観は天台己証の界如三千・三諦三観を正と為す迹門の正意是なり、故に知んぬ迹仏の知見なりと云う事を但止観に絶待不思議の妙観を明かすと云えども只一念三千の妙観に且らく与えて絶待不思議と名けるなり。
 問う天台大師真実に此の一言の妙法を証得したまわざるや、答う内証爾らざるなり、外用に於ては之を弘通したまわざるなり、所謂内証の辺をば秘して外用には三観と号して一念三千の法門を示現し給うなり、問う何が故ぞ知り乍ら弘通し給わざるや、答う時至らざるが故に付属に非ざるが故に迹化なるが故なり、問う天台此の一言の妙法を証得し給える証拠之有りや、答う此の事天台一家の秘事なり世に流布せる学者之を知らず灌頂玄旨の血脈とて天台大師自筆の血脈一紙之有り、天台御入滅の後は石塔の中に之有り伝教大師御入唐の時八舌の鑰を以て之を開き道邃和尚より伝受し給う血脈とは是なり、此の書に云く「一言の妙旨・一教の玄義」文、伝教大師の血脈に云く「夫れ一言の妙法とは両眼を開いて五塵の境を見る時は随縁真如なるべし両眼を閉じて無念に住する時は不変真如なるべし、故に此の一言を聞くに万法玆に達し一代の修多羅一言に含す」文、此の両大師の血脈の如くならば天台大師の血脈相承の最要の法は妙法の一言なり、一心三観とは所詮妙法を成就せん為の修行の方法


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