御書本文

諫暁八幡抄
588ページ

仏・迹には不妄語の八幡大菩薩なり、八葉は八幡・中台は教主釈尊なり、四月八日・寅の日に生まれ八十年を経て二月十五日申の日に隠れさせ給う、豈に教主の日本国に生まれ給うに有らずや、大隅の正八幡宮の石の文に云く「昔し霊鷲山に在つて妙法華経を説き今正宮の中に在て大菩薩と示現す」等云云、法華経に云く「今此三界」等云云、又「常に霊鷲山に在り」等云云、遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子なり、近くは日本国・四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子なり、今日本国の一切衆生は八幡をたのみ奉るやうにもてなし釈迦仏をすて奉るは影をうやまつて体をあなづり子に向いて親をのるがごとし、本地は釈迦如来にして月氏国に出でて正直捨方便の法華経を説き給い、垂迹は日本国に生れては正直の頂きにすみ給う、諸の権化の人人の本地は法華経の一実相なれども垂迹の門は無量なり、所謂跋倶羅尊者は三世に不殺生戒を示し鴦崛摩羅は生生に殺生を示す、舎利弗は外道となり是くの如く門門不同なる事は本凡夫にて有りし時の初発得道の始を成仏の後・化他門に出で給う時我が得道の門を示すなり、妙楽大師云く「若し本に従て説かば亦是れ昔殺等の悪の中に於て能く出離するが故なり是の故に迹中に亦殺を以て利他の法門と為す」等云云、今八幡大菩薩は本地は月支の不妄語の法華経を迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂きにやどらんと云云、若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給うとも法華経の行者・日本国に有るならば其の所に栖み給うべし。
 法華経の第五に云く諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す、経文の如くんば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等・昼夜に守護すべしと見えたり、又第六の巻に云く「或は己身を説き或は他身を説き或は己身を示し或は他身を示し或は己事を示し或は他事を示す」文観音尚三十三身を現じ妙音又三十四身を現じ給ふ教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや・天台云く「即是れ形を十界に垂れて種種の像を作す」等云云。
 天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
諫暁八幡抄 59   身延

日蓮大聖人御書

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諫暁八幡抄 588ページ

仏・迹には不妄語の八幡大菩薩なり、八葉は八幡・中台は教主釈尊なり、四月八日・寅の日に生まれ八十年を経て二月十五日申の日に隠れさせ給う、豈に教主の日本国に生まれ給うに有らずや、大隅の正八幡宮の石の文に云く「昔し霊鷲山に在つて妙法華経を説き今正宮の中に在て大菩薩と示現す」等云云、法華経に云く「今此三界」等云云、又「常に霊鷲山に在り」等云云、遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子なり、近くは日本国・四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子なり、今日本国の一切衆生は八幡をたのみ奉るやうにもてなし釈迦仏をすて奉るは影をうやまつて体をあなづり子に向いて親をのるがごとし、本地は釈迦如来にして月氏国に出でて正直捨方便の法華経を説き給い、垂迹は日本国に生れては正直の頂きにすみ給う、諸の権化の人人の本地は法華経の一実相なれども垂迹の門は無量なり、所謂跋倶羅尊者は三世に不殺生戒を示し鴦崛摩羅は生生に殺生を示す、舎利弗は外道となり是くの如く門門不同なる事は本凡夫にて有りし時の初発得道の始を成仏の後・化他門に出で給う時我が得道の門を示すなり、妙楽大師云く「若し本に従て説かば亦是れ昔殺等の悪の中に於て能く出離するが故なり是の故に迹中に亦殺を以て利他の法門と為す」等云云、今八幡大菩薩は本地は月支の不妄語の法華経を迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂きにやどらんと云云、若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給うとも法華経の行者・日本国に有るならば其の所に栖み給うべし。
 法華経の第五に云く諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す、経文の如くんば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等・昼夜に守護すべしと見えたり、又第六の巻に云く「或は己身を説き或は他身を説き或は己身を示し或は他身を示し或は己事を示し或は他事を示す」文観音尚三十三身を現じ妙音又三十四身を現じ給ふ教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや・天台云く「即是れ形を十界に垂れて種種の像を作す」等云云。
 天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月


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