御書本文

始聞仏乗義
983ページ

や、答う法華経第三薬草喩品に云く「種相体性」の四字なり其の四字の中に第一の種の一字に二あり、一には就類種二には相対種なり、其の就類種とは釈に云く「凡そ心有る者は是れ正因の種なり随つて一句を聞くは是れ了因の種なり低頭挙手は是れ縁因の種なり」等云云、其の相対種とは煩悩と業と苦との三道・其の当体を押えて法身と般若と解脱と称する是なり、其の中に就類種の一法は宗は法華経に有りと雖も少分又爾前の経経にも通ず、妙楽云く「別教は唯就類の種有つて而も相対無し」と云云、此の釈の別教と云うは本の別教には非ず爾前の円或は他師の円なり、又法華経の迹門の中・供養舎利已下二十余行の法門も大体就類種の開会なり、問う其の相対種の心如何、答う止観に云く「云何なるか聞円法なる生死即法身・煩悩即般若・結業即解脱なりと聞くなり三の名有りと雖も而も三の体無し是れ一体なりと雖も而も三の名を立つ是の三即ち一相にして其れ実に異有ること無し、法身究竟すれば般若も解脱も亦究竟なり般若清浄なれば余亦清浄なり解脱自在なれば余亦自在なり一切の法を聞くこと亦是の如し皆仏法を具して減少する所無し是を聞円と名く」等云云、此の釈は即ち相対種の手本なり其の意如何、答う生死とは我等が苦果の依身なり所謂五陰・十二入・十八界なり煩悩とは見思・塵沙・無明の三惑なり結業とは五逆・十悪・四重等なり、法身とは法身如来・般若とは報身如来・解脱とは応身如来なり我等衆生無始曠劫より已来此の三道を具足し今法華経に値つて三道即三徳となるなり。
 難じて云く火より水出でず石より草生ぜず悪因・悪果を感じ善因善報を生ずるは仏教の定れる習なり而るに我等其の根本を尋ね究むれば父母の精血・赤白二渧和合して一身と為る悪の根本不浄の源なり、設い大海を傾けて之を洗うとも清浄なる可らず又此れ苦果の依身は其の根本を探り見れば貪・瞋・癡の三毒より出ずるなり、此の煩悩苦果の二道に依つて業を構う此の業道即ち是れ結縛の法なり、譬えば籠に入れる鳥の如し如何ぞ此の三道を以て三仏因と称するや、譬えば糞を集めて栴檀を造れども終に香しからざるが如し、答う汝が難大いに道理なり

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
始聞仏乗義 57 富木常忍 身延

日蓮大聖人御書

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始聞仏乗義 983ページ

や、答う法華経第三薬草喩品に云く「種相体性」の四字なり其の四字の中に第一の種の一字に二あり、一には就類種二には相対種なり、其の就類種とは釈に云く「凡そ心有る者は是れ正因の種なり随つて一句を聞くは是れ了因の種なり低頭挙手は是れ縁因の種なり」等云云、其の相対種とは煩悩と業と苦との三道・其の当体を押えて法身と般若と解脱と称する是なり、其の中に就類種の一法は宗は法華経に有りと雖も少分又爾前の経経にも通ず、妙楽云く「別教は唯就類の種有つて而も相対無し」と云云、此の釈の別教と云うは本の別教には非ず爾前の円或は他師の円なり、又法華経の迹門の中・供養舎利已下二十余行の法門も大体就類種の開会なり、問う其の相対種の心如何、答う止観に云く「云何なるか聞円法なる生死即法身・煩悩即般若・結業即解脱なりと聞くなり三の名有りと雖も而も三の体無し是れ一体なりと雖も而も三の名を立つ是の三即ち一相にして其れ実に異有ること無し、法身究竟すれば般若も解脱も亦究竟なり般若清浄なれば余亦清浄なり解脱自在なれば余亦自在なり一切の法を聞くこと亦是の如し皆仏法を具して減少する所無し是を聞円と名く」等云云、此の釈は即ち相対種の手本なり其の意如何、答う生死とは我等が苦果の依身なり所謂五陰・十二入・十八界なり煩悩とは見思・塵沙・無明の三惑なり結業とは五逆・十悪・四重等なり、法身とは法身如来・般若とは報身如来・解脱とは応身如来なり我等衆生無始曠劫より已来此の三道を具足し今法華経に値つて三道即三徳となるなり。
 難じて云く火より水出でず石より草生ぜず悪因・悪果を感じ善因善報を生ずるは仏教の定れる習なり而るに我等其の根本を尋ね究むれば父母の精血・赤白二渧和合して一身と為る悪の根本不浄の源なり、設い大海を傾けて之を洗うとも清浄なる可らず又此れ苦果の依身は其の根本を探り見れば貪・瞋・癡の三毒より出ずるなり、此の煩悩苦果の二道に依つて業を構う此の業道即ち是れ結縛の法なり、譬えば籠に入れる鳥の如し如何ぞ此の三道を以て三仏因と称するや、譬えば糞を集めて栴檀を造れども終に香しからざるが如し、答う汝が難大いに道理なり


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