御書本文
薩と成りて永く無間大城に沈み候べし、故に扶桑記に云く「又伝教大師八幡大菩薩の奉為に神宮寺に於て、自ら法華経を講ず、乃ち聞き竟て大神託宣すらく我法音を聞かずして久しく歳年を歴る幸い和尚に値遇して正教を聞くことを得たり兼て我がために種種の功徳を修す至誠随喜す何ぞ徳を謝するに足らん、兼て我が所持の法衣有りと即ち託宣の主自ら宝殿を開いて手ら紫の袈裟一つ紫の衣一を捧げ和尚に奉上す大悲力の故に幸に納受を垂れ給えと、是の時に禰宜・祝等各歎異して云く元来是の如きの奇事を見ず聞かざるかな、此の大神施し給う所の法衣今山王院に在るなり」云云、今謂く八幡は人王第十六代・応神天皇なり其の時は仏経無かりしかば此に袈裟衣有るべからず、人王第三十代欽明天皇の治三十二年に神と顕れ給い其れより已来弘仁五年までは禰宜・祝等次第に宝殿を守護す、何の王の時・此の袈裟を納めけると意へし而して禰宜等云く元来見ず聞かず等云云、此の大菩薩いかにしてか此の袈裟・衣は持ち給いけるぞ不思議なり不思議なり。
又欽明より已来弘仁五年に至るまでは王は二十二代・仏法は二百六十余年なり、其の間に三論・成実・法相・倶舎・華厳・律宗・禅宗等の六宗七宗・日本国に渡りて八幡大菩薩の御前にして経を講ずる人人・其の数を知らず、又法華経を読誦する人も争でか無からん、又八幡大菩薩の御宝殿の傍には神宮寺と号して法華経等の一切経を講ずる堂・大師より已前に是あり、其の時定めて仏法を聴聞し給いぬらん何ぞ今始めて我法音を聞かずして久しく年歳を歴る等と託宣し給ふべきや、幾くの人人か法華経・一切経を講じ給いけるに何ぞ此の御袈裟・衣をば進らさせ給はざりけるやらん、当に知るべし伝教大師已前は法華経の文字のみ読みけれども其の義はいまだ顕れざりけるか、去ぬる延暦二十年十一月の中旬の比・伝教大師比叡山にして南都・七大寺の六宗の碩徳・十余人を奉請して法華経を講じ給いしに、弘世・真綱等の二人の臣下此の法門を聴聞してなげいて云く「一乗の権滞を慨き三諦の未顕を悲しむ」又云く「長幼三有の結を摧破し猶未だ歴劫の轍を改めず」等云云、其の後延暦二十一年正月十九日
タイトル | 聖寿 | 対告衆 | 述作地 |
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諫暁八幡抄 | 59 | 身延 |
日蓮大聖人御書
検索結果詳細 御書本文
諫暁八幡抄 579ページ
薩と成りて永く無間大城に沈み候べし、故に扶桑記に云く「又伝教大師八幡大菩薩の奉為に神宮寺に於て、自ら法華経を講ず、乃ち聞き竟て大神託宣すらく我法音を聞かずして久しく歳年を歴る幸い和尚に値遇して正教を聞くことを得たり兼て我がために種種の功徳を修す至誠随喜す何ぞ徳を謝するに足らん、兼て我が所持の法衣有りと即ち託宣の主自ら宝殿を開いて手ら紫の袈裟一つ紫の衣一を捧げ和尚に奉上す大悲力の故に幸に納受を垂れ給えと、是の時に禰宜・祝等各歎異して云く元来是の如きの奇事を見ず聞かざるかな、此の大神施し給う所の法衣今山王院に在るなり」云云、今謂く八幡は人王第十六代・応神天皇なり其の時は仏経無かりしかば此に袈裟衣有るべからず、人王第三十代欽明天皇の治三十二年に神と顕れ給い其れより已来弘仁五年までは禰宜・祝等次第に宝殿を守護す、何の王の時・此の袈裟を納めけると意へし而して禰宜等云く元来見ず聞かず等云云、此の大菩薩いかにしてか此の袈裟・衣は持ち給いけるぞ不思議なり不思議なり。
又欽明より已来弘仁五年に至るまでは王は二十二代・仏法は二百六十余年なり、其の間に三論・成実・法相・倶舎・華厳・律宗・禅宗等の六宗七宗・日本国に渡りて八幡大菩薩の御前にして経を講ずる人人・其の数を知らず、又法華経を読誦する人も争でか無からん、又八幡大菩薩の御宝殿の傍には神宮寺と号して法華経等の一切経を講ずる堂・大師より已前に是あり、其の時定めて仏法を聴聞し給いぬらん何ぞ今始めて我法音を聞かずして久しく年歳を歴る等と託宣し給ふべきや、幾くの人人か法華経・一切経を講じ給いけるに何ぞ此の御袈裟・衣をば進らさせ給はざりけるやらん、当に知るべし伝教大師已前は法華経の文字のみ読みけれども其の義はいまだ顕れざりけるか、去ぬる延暦二十年十一月の中旬の比・伝教大師比叡山にして南都・七大寺の六宗の碩徳・十余人を奉請して法華経を講じ給いしに、弘世・真綱等の二人の臣下此の法門を聴聞してなげいて云く「一乗の権滞を慨き三諦の未顕を悲しむ」又云く「長幼三有の結を摧破し猶未だ歴劫の轍を改めず」等云云、其の後延暦二十一年正月十九日
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