御書本文

十法界明因果抄
433ページ

四に比丘尼なり五百戒を持す余は比丘の如し、一代諸経に列座せる舎利弗目連等の如き声聞是なり永く六道に生ぜず亦仏菩薩とも成らず灰身滅智し決定して仏に成らざるなり、小乗戒の手本たる尽形寿の戒は一度依身を壊れば永く戒の功徳無し、上品を持すれば二乗と成り中下を持すれば人天に生じて民と為る之を破れば三悪道に堕して罪人と成るなり、安然和尚の広釈に云く「三善は世戒なり因生じて果を感じ業尽きて悪に堕す譬えば楊葉の秋至れば金に似れども秋去れば地に落つるが如し、二乗の小戒は持する時は果拙く破る時は永く捨つ譬えば瓦器の完くして用うるに卑しく若し破れば永く失するが如し」文。
 第八に縁覚道とは二有り一には部行独覚・仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習い小乗の戒を持し見思を断じて永不成仏の者と成る、二には麟喩独覚・無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し見思を断じて永不成仏の身と成る戒も亦声聞の如し此の声聞縁覚を二乗とは云うなり。
 第九に菩薩界とは六道の凡夫の中に於て自身を軽んじ他人を重んじ悪を以て己に向け善を以て他に与えんと念う者有り、仏此の人の為に諸の大乗経に於て菩薩戒を説きたまえり、此の菩薩戒に於て三有り一には摂善法戒所謂八万四千の法門を習い尽さんと願ず、二には饒益有情戒・一切衆生を度しての後に自ら成仏せんと欲する是なり、三には摂律儀戒一切の諸戒を尽く持せんと欲する是なり、華厳経の心を演ぶる梵網経に云く「仏諸の仏子に告げて言く十重の波羅提木叉有り若し菩薩戒を受けて此の戒を誦せざる者は菩薩に非ず仏の種子に非ず我も亦是くの如く誦す一切の菩薩は已に学し一切の菩薩は当に学し一切の菩薩は今学す」文、菩薩と言うは二乗を除いて一切の有情なり、小乗の如きは戒に随つて異るなり、菩薩戒は爾らず一切の有心に必ず十重禁等を授く一戒を持するを一分の菩薩と云い具に十分を受くるを具足の菩薩と名く、故に瓔珞経に云く「一分の戒を受くること有れば一分の菩薩と名け乃至二分・三分・四分・十分なるを具足の受戒と云う」文。

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タイトル 聖寿 対告衆 述作地
十法界明因果抄 39   鎌倉

日蓮大聖人御書

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十法界明因果抄 433ページ

四に比丘尼なり五百戒を持す余は比丘の如し、一代諸経に列座せる舎利弗目連等の如き声聞是なり永く六道に生ぜず亦仏菩薩とも成らず灰身滅智し決定して仏に成らざるなり、小乗戒の手本たる尽形寿の戒は一度依身を壊れば永く戒の功徳無し、上品を持すれば二乗と成り中下を持すれば人天に生じて民と為る之を破れば三悪道に堕して罪人と成るなり、安然和尚の広釈に云く「三善は世戒なり因生じて果を感じ業尽きて悪に堕す譬えば楊葉の秋至れば金に似れども秋去れば地に落つるが如し、二乗の小戒は持する時は果拙く破る時は永く捨つ譬えば瓦器の完くして用うるに卑しく若し破れば永く失するが如し」文。
 第八に縁覚道とは二有り一には部行独覚・仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習い小乗の戒を持し見思を断じて永不成仏の者と成る、二には麟喩独覚・無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し見思を断じて永不成仏の身と成る戒も亦声聞の如し此の声聞縁覚を二乗とは云うなり。
 第九に菩薩界とは六道の凡夫の中に於て自身を軽んじ他人を重んじ悪を以て己に向け善を以て他に与えんと念う者有り、仏此の人の為に諸の大乗経に於て菩薩戒を説きたまえり、此の菩薩戒に於て三有り一には摂善法戒所謂八万四千の法門を習い尽さんと願ず、二には饒益有情戒・一切衆生を度しての後に自ら成仏せんと欲する是なり、三には摂律儀戒一切の諸戒を尽く持せんと欲する是なり、華厳経の心を演ぶる梵網経に云く「仏諸の仏子に告げて言く十重の波羅提木叉有り若し菩薩戒を受けて此の戒を誦せざる者は菩薩に非ず仏の種子に非ず我も亦是くの如く誦す一切の菩薩は已に学し一切の菩薩は当に学し一切の菩薩は今学す」文、菩薩と言うは二乗を除いて一切の有情なり、小乗の如きは戒に随つて異るなり、菩薩戒は爾らず一切の有心に必ず十重禁等を授く一戒を持するを一分の菩薩と云い具に十分を受くるを具足の菩薩と名く、故に瓔珞経に云く「一分の戒を受くること有れば一分の菩薩と名け乃至二分・三分・四分・十分なるを具足の受戒と云う」文。


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